リベラルブロガーの出家体験

巡回するというわけではないが時々読む、R30::マーケティング社会時評とゆーブログに、「人の死を直視するということについて」なる記事があるのに気がついて、正直、ちょっとした驚きをもって読みました。

大学生の時、とある事情からタイの田舎で出家した経験がある。

という一言から始まるエッセイで、R30@管理人氏が一字出家の最中に高校時代の友人(彼は高校時代にタイでホームステイをしていた)の死と直面した体験を綴っています。おそらく僕とさして歳は変わらない彼が、そのような青春時代を過ごし得たことは何となく想像できるのです。

出家生活中、もっとも辛かったのが午前中だけの食事でも、女性と接することの禁止でもなく、「早朝の托鉢だった」という回想も興味深いですが、記事の主題部分はこのように書かれています。

 さて、毎朝しかめっ面で村々を歩いて回っていたある日の午後、先輩の僧侶が「病人の治癒祈願に行くからついてこい」と言った。特に用事もなかった僕は数人の僧侶仲間と一緒に先輩の後をついて行ったところ、彼が入っていったのは僕の高校時代に同じ学校にいた、同級生の家だった。

 家族や医者に囲まれて横たわっていたのは、まさにその同級生だった。彼とは高校の時以来会っていなかったが、当時一緒にサッカーやバスケットなどしたこともあり、元気な頃の彼の姿をはっきり覚えていた。内臓が悪いのか、やせ細って顔が黄褐色に変色し、目をつぶったまま不自然な荒い呼吸を繰り返す彼の変わり果てた姿を見て、唖然とした。

同級生の家で病気平癒のパリッタを修して一週間後、彼は自分のいた寺で、その同級生の葬式をあげることになりました。

 その時、ふいに僕は目頭が熱くなった。高校の時に少し知り合いだっただけの彼の死に、どうしてだか分からなかったが、何かが胸の中からこみ上げてきた。すると、目を押さえた僕の様子に気づいた先輩僧侶が僕に向かって静かに諭すように言った。

 「僧侶なら、泣いてはいけない。死は誰にでも訪れる。だから彼の死をただじっと見つめなさい。そして泣くのは止めなさい」

 それからしばらく、僕は夜眠ろうとすると、頭の中を虹色の光がぐるぐると飛び交って眠れなくなる日が続いた。光は日をおうごとに少しずつ増えていくようだった。僕の心を邪魔しに来ているような感じだった。毎晩寝つかれなかったが、翌朝早くからまた起きなければならない。何とかして眠ろうと、一生懸命他のことを考えたりしようとした。でも眠れなかった。

 ある夜、光があまりにもすごい勢いで渦巻きはじめた。どうしてこんなことになるのか分からなくて、無我夢中で先輩僧侶の部屋に行って「助けて下さい」と叫んだ。でも先輩は出てこない。気が狂いそうになり、思わず毎日唱えているお経を唱えた。すると、それまで毎日唱えていたのに何の「御利益」もなかったサンスクリット語の経の言葉が、突然意識の中にすーっと吸い込まれて、そして虹色の光の渦は音もなく消えた。心の中には、真っ暗な静寂が広がっているだけだった。その瞬間、先輩僧侶に言われた言葉の1つひとつが、とても自然に思えるようになった。

 これは、たぶん「宗教的体験」と言われるものなんだろうと思っている。だから同じことを他人が体験できるとは思わないし、だから他人に上座部仏教への入信を勧めようとかも思わない。

 ただ、1つ思うのは、最近2ちゃんねるあたりで流行しているそうだが、どこぞの殺人動画を見ることが「死を直視する」ことでは、決してないということだ。僕なりに考える「死を直視する」ということの意味は、ある人の死を通じて、それがいつ何時自分であってもおかしくないと思うこと、そして「死は誰にでも訪れる」という現実をただじっと見つめて、そこから自分の生きる意味を考えるということである。もっと言えば、メディアを通したのではない、目の前のナマの死を見て、それと自分を対比することだ。

この次に来るテキストはさらに清々しく感動的なので、どうか元記事をお読みください。

彼がその夜に思い出したのは果たして、アニミッタン・マナンニャータン・マッチャーナン・イダ・ジーヴィタン…というスッタニパータの箭経だったのでしょうか。「死を観る」ということの厳しさ・鮮烈さについて、思わぬところで教えを受けることができました。R30@管理人氏にこころより感謝いたします。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜