大乗仏教というニッポンの難儀

前回に続いて、tenjin95さんという曹洞宗のお坊さんが主催されているブログ『つらつら日暮らし』の「えっ!大乗仏教は本当の仏教ではないんですか・・・?」というエントリへのコメント転載。tenjin95さんの希望でリンクは外してあります。読みたい人は勝手に検索してご覧ください(発言は、tenjin95さんのレスを受けています)。

Unknown (寺男)

2005-09-30 18:19:36

お釈迦さまの教えから変化した、「自分の」仏教を守るために、お釈迦さまの教え以外のものをすべて味方につけようとする、その涙ぐましい努力には同情いたします。

大乗仏教に関する弁明は聞き置きました。まぁ一つのご見識だから、それはそれでいいと思います。上座部もいろいろあったではないか、というのも確かにそうですね。一般の方は「へーそうなんだ」と思うでしょう。でも自分で実際に調べると、「いろいろ」の中身は大乗仏教と比較にならないほど些細なこと、という結論に至る可能性はおおいにあります。異端といってもそのくらいのものか、という程度の可愛い連中であることも。

●パーリ仏教がいわゆる先進国では大勢を取れていないということについて。

tenjin95さんのプライドを潰してしまうのは気が引けますが、先進国というのがかつて植民地争奪戦に参画し、その余慶で現在も経済力で上位にある国、という意味ならそうかもしれません。

しかし、現代社会では、たとえばシンガポールは先進国ではないのでしょうか? 大勢かどうか知りませんがシンガポールにはたくさんのパーリ仏教寺院があって華僑系の方々に信仰されています。(ちなみにその隣のマレーシアでも、金持ちの華僑といえばテーラワーダ仏教徒です)。

また、お気の毒なことに、日本以外の「いわゆる先進国」における仏教徒(こういう定義なら歴史的な経緯は抜きにできるから公正でしょう)の中では、テーラワーダ仏教が大勢を占めていると言っても妄語にはならないのです。どう控えめに見てもチベット仏教・禅宗系と並んで三分の一はテーラワーダです。

●衆生が求める幸福/不幸の基準をどう評価するのか?民衆が戦争を望んでいた場合はどうなるのか?

みんな幸せになろうとして不幸になる道を歩んでしまっているからこそ、ブッダの教えが必要なのです。違いますか?

「民衆が戦争を望んだ」としたら、それは貪瞋癡で望んだことです。貪瞋癡の衝動で幸福にはなれません。これは永遠の真理です。失礼ながら、tenjin95さんはどうにもならんことをどうにかしようとして、頭が混乱しているようです。

●日本仏教の過去を批判することは「日本仏教が脱しつつある被差別者への「悪しき業論」」の復活か?

悪しきも何も、単なる歴史的事実です。みなで共有して他山の石にすればいいだけです。二度と繰り返さないためには「仏教原理主義」が役に立ちますよ、というのは僕の提案です。というか、他に方法では腰砕けになるだけでしょう。

まぁ、一応業についても触れましょう。世間を味方につけるために業論を否定する(うやむやにする)というのは、一部の日本仏教の選んだ方針のようです。しかし深信因果は、仏弟子である道元禅師も仰っていることです。業を否定したら仏教は成り立たないはずですので、日本人が勝手に誤解した「悪しき業論」を駆逐することに熱心なあまり、業論自体を否定したりしないでくださいね、とお願いしておきます。また、業論に触れないことが「(後進国の仏教徒とは違う)オレたち先進国の仏教徒の証」みたいな珍妙なプライド病に陥らないよう、ご自愛ください。

●本ブログは「リンクは大歓迎」だが、「フリー」ではない。できれば(寺男ブログの)関連ログは削除することを希望。

削除する理由がないので削除はしませんが、とりあえずリンクは外して置きます。読みたい人は自分で検索して読むでしょう。

余談ですが、僕自身は、テーラワーダ仏教と出会うまでは寶慶記が心の支えだったので、正師を得るまで、道元禅師に守っていただいたと感謝しております。

tenjin95さんの悩み苦しみがなくなりますように。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜

やれやれ。確信(サッダー)のない「信仰」の世界に退却し、現代社会の居留地に堅固な砦と築こう、というのが日本仏教の行き方であるならば、もう何も言うまいて。釈尊の声に怯え、「原理主義」という流行語でも何でも使って、ブッダをゴミ箱にすてようとする愚も見逃そう。一秒でも長く生きながらえたいと願うのは、誰でもいっしょだから。

で、また長いレスをいただいた。未読と誤解による当日記のエントリも削除してほしいとのこと。世のなかには、いろんなことを要求してくる人がいるものだ…。三界の隅々まで探してみると「来たれ、見よ」と言えないどころか、「削除しろ、墨を塗れ」という仏教もあるようです。さっそくレスしました。

未読も味読もありますが (寺男)

2005-09-30 22:00:26

tenjin95さん

言葉遣いには随分と厳しいようです。

あの…「G8諸国でテーラワーダ仏教が大勢を取っていない」こととテーラワーダ仏教の限界とどういう関係があるんですか?

いうまでもないことですが、何の関係もありませんよね。

G8でここ百年の間に宗教の構成が著しく変容した国がありますか?

ありませんよね。

いまのG8が、未来永劫いまのG8の構成であると、仏教の立場からは言えますか?

言えませんよね。

なぜまったく無意味な事例を出して、他宗派についての印象操作をしようとされたのでしょうか? まぁ、大乗批判に「原理主義」という言葉を持ち出して反論する時点で、仏教の特質を無視した印象操作だと、僕は思いますけど。

ブッダ観については、議論しても噛み合わないところかもしれません。でも菩薩ってのは一切智者じゃないんだから、如来より優れたことを言うということは、言葉の定義から言ったらあり得ないんじゃないでしょうか? まずは仏教辞典を書き換えてもらわないと…。

tenjin95さんが「中傷だ」と仰る柄谷行人氏云々の箇所は、エントリのいちばん最後ですし最初に目に入りました。だからご安心ください、読んでいます。読んだ上で言っています。社会が望んで戦争に突入しようという状況に「安寧」というのは、言葉遣いが間違っています。それは貪瞋癡で完全に燃えている状態ではないでしょうか? そういう言葉の定義からしてグチャグチャの論説に乗って、仏教徒があれこれ悩む必要もないでしょう。「たいがいにしとけば?」というくらいのことです。

業論については、ブッダが業論を説かなかったと考えているのであれば、業論を否定したのと変わりありません。経典の読みもぜんぜん違ってくる。ただ伝統仏教にくっついてきた概念だからどうにかして使おう、というくらいの扱いになってしまいます。しかし、業論がウパニシャッドから仏教に流入したというのはホントウですか? 仏教の業論が先で、あとからウパニシャッドがいい加減にパクッた、というのが僕の理解ですし、そのような学説もありますよね。

日本の戦時中の例(皇道仏教・皇道禅・皇道真宗云々)は仏教史の事実です。南方進出いけいけドンドンでいた時は仏教を前面に出して威張っていた仏教者が、負けが込んでくると「いまは仏教なんて言ってはいけない」と仏教そのものを捨ててしまった。そういう事実をいうことが、なぜ中傷なんでしょうか? そこで業論が出てくる理由もさっぱりわからない。ただ手元にあるものを投げているようにしか思えません。

「原理主義批判」なんていう宗教を十把一絡げにした粗雑な理屈にのっかって、釈尊の教えの価値を貶めるのは納得がいかない。ちょっとからかいでもしないと仏教徒としては収まりがつきません。世間のコロコロ変わるどうでもいい妄想(真理から見れば)に引っ張られて、自分たちの大切にすべき優先順位を失ってしまう。寄りかかっていた妄想が崩れたら、しばらく途方にくれて、あとからまたその時々の「人気のある」妄想に寄り添って自己正当化しようとする。

「日本仏教よ、そんな情けないループから脱却せよ。仏教の原理に立ち返って正気を取り戻せ」というのが、日本仏教に勝手に仲間意識を持っているあるテーラワーダ仏教徒からの忠告です。ネットという公の場ですから、ある程度他にも「響く」ように語っています。

テキストの削除はしません。「未読箇所(味読箇所も)」があることは認めます。tenjin95さんの意に沿わない読みをしていることもあるでしょう。だからといって自分のブログのエントリまで削除する理由にはなりません。

寶慶記は余談です。ただ、僕にはあの書を記した道元禅師の気持ちがよく分かるように思えます。

tenjin95さんの悩み苦しみがなくなりますように。

『つらつら日暮らし』の元コメントは削除されるかもしれないので、結果としては僕の一方的なコメントしか残らないかもしれません。でも、それでも「論」なので、何もないよりはマシでしょう。「誤読」かどうかは、読者が判断してください。

で、速攻レスがあったので、こちらも若さを見せてもう一通。

宵っ張りなので?もう少し… (寺男)

2005-10-01 01:00:38

tenjin95さん

●G8の宗教について/アメリカにおける仏教受容

創価学会ね…。まぁそこまで仰るならいいです。テーラワーダ仏教の日本布教にも希望が持てます。アメリカは自由の国ですから仏教に触れていろんな展開をする人はいます。だいたい我侭なアメリカ人に「言ったとおりやれ」という方が大変ですよ。でもそんな古臭い教義を持って排斥されているという上座部比丘が、アメリカ全土で25年前から20倍にも増えているそうです。もっとも元の数がすくないんですけど。

●「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」について

柄谷さんの問題設定は分かります。でも仏教徒ならそうは考えない、へんてこりんな考え方をしています。それに乗っかってアレコレ考えることが「ご苦労さん」に思えます。仏教徒なら、

(3)「平和を守って餓死しない方法」を模索することが正解です。

相手に笑われるかもしれませんが、堂々と言ってやればいいんです。道徳を守りながら、自分を守ることが、釈尊の勧めた生きかたですから。

それが出来ないのは世俗の問題設定のフレームに巻き込まれているからです(ジャータカでも読めば、いくらでもアンチョコが出てきます)。そういうダイナミックな議論ができないところは、まったくもって「弱み」だと思います。

●業について

確かにカンマ(カルマ)は一般的な単語ですから、それを釈尊が発明したわけではありません。ジャイナ教徒とのディスカッションを記した経典を読めば明白ですが、(僕の理解では)釈尊は業について知り尽くして、不完全だったインドにおける業の知識を完全に解き明かしたということです。で、それを後からウパニシャッドの作者たちがパクってもったいぶった聞き書きを作りました。

太陽と同じで隠されると力を失う、覆いのないオープンな状況で十全に光り輝くのが仏法ですから、教えをコソコソ隠したがるのは偽者の証拠です。

いずれにせよ、現代の仏教者がやりがちな、自分たちの教義を新しい現代の概念に摺り寄せて立場をつくったり、なんとか折衷案を探したり、遠慮して一部の教えを隠したり変えたり、一周遅れの先端性をプレゼンしたり、といった情けないアプローチとはまったく次元が違います。

●戒律について

雨安居の制だけじゃなくて布薩も袈裟もみんなそうですが、戒律については問題が起こったときにいちいち決めるというのが、釈尊の最初からの方針だったのですから、当時の風習を取り入れて戒律が変化したことには矛盾はありません。お釈迦さまは比較的長生きだったので、お亡くなりになる頃にはだいたい普遍的で耐久性のあるサンガの生活習慣が完成しました。思想…というのはボヤっとした言い方ですが、解脱知見は一切智者なので変化のしようがありません。説法の仕方や瞑想法の指導には、弟子・聴衆の機根によって変化が見られます。

●ブッダと阿羅漢、菩薩について

これは見解の相違ですね。大乗仏教の存立に関わるし、それは問題にしません。
手前の教学的な理屈になっちゃいますが、現在は釈尊の時代と同じ劫ですから、悟ったとしたら釈尊の説かれた方法で悟ることになる、という説明はできます。釈尊の時代と現代と、生命としての人間はまったく変わっていませんから。だから別に釈尊と違ったことを説く必要もない。史上有名な大阿羅漢はたくさんいますし、銅像の建ってるお坊さんもたくさんいるけど、みんな納得して釈尊の教えのまま説かれてきました。

だいいち、自分の宗教的体験を釈尊に仮託して経典を作るというのは大乗仏教の文化で、伝統派にはその発想自体がありません。しかもそれを実際にやったのはインドで大乗仏教運動(一種のリバイバル?)が起こった時期の一部の坊さんだけ(自覚的な偽経作者やチベットの埋蔵経典発掘者などは別)でしたし。

●僧でないものが教義を語る

僕は在家ですが、何を言っても別に問題ないです。勉強中の僧が勝手なことをいうのは問題ですが、在家は縛られていません。いろんな事例を見聞きすると諸外国でもかなり自由です。自分の責任でいいたい放題です。

日本では在家も出家も同じ生活をしているのに随分距離感があります。両者をへだてるのはよく分からない形而上学的な思想か、出生です。

テーラワーダでは僕の知る限り、在家と出家はずいぶん違う生活をしているのに、距離感はほとんどありません。在家が出家を敬うのは自分より道徳的な生活をしている(戒律を守っている)時にすんげぇ知識人だからです。あとお布施の儀式の時には、理念上のサンガを代表してもらうので、どんなアホな僧侶にも最敬礼します。

これはシンガポールなどの中華圏に顕著ですが、具足戒を受けているお坊さんであれば(日本以外はだいたい受けている)、大乗もテーラワーダも関係なしに僧侶は敬います。区別せずに布施をします。戒を守る人(道徳を守る人)を尊敬する、もっと功利的な言い方をすれば、戒を守る人こそが布施に値する福田であるという、仏教の基本思想が生きているからだと思います。

そんなところでしょうか。激励していただきましたが、はい、本当の仏教徒(=預流果以上に悟った人)になるよう、いよいよ精進しなければ…。

tenjin95さんに悟りの光が現れますように。

元のブログ記事は絵文字が使えるので、もっと可愛くなってます。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜