澤木興道聞き書き インド仏教変移論

沢木興道聞き書き (講談社学術文庫 (639))

沢木興道聞き書き (講談社学術文庫 (639))

学芸大学前の古書店にて。350円。禅者の伝記の類はあまり積極的に読んでなかったんだけど、これは箆棒に面白かった。僕がいっとき座右の書にしていた勝小吉の『夢酔独言』にも通じるむき出しのまっさらな心意気を感じました。折に触れ読み返したくなりそうな名言の宝庫です。僕が毎年ヴィパッサナー冥想合宿でお世話になっている丹後野田川四辻の宝泉寺は若き澤木興道師が笛岡凌雲師に随身して過ごしたお寺なのだとか。澤木氏は本書の中で笛岡凌雲師の清らかな人柄をたいへん懐かしげに回想されていました。そして現住職の笛岡泰雲師は、日本テーラワーダ仏教協会HPの共同管理人です。因縁浅からぬものがあったわけですね。最近読んだ禅者の伝記としては、臨済宗の山本玄峰師を顕彰した『再来―山本玄峰伝』が面白かった。托鉢しながら次々に荒れ寺を再興していく描写は圧巻。こういう野にいた仏教者の本を読むたびに、昔の日本はホントに仏教の近くにいたんだなぁという感慨を覚えます。

夢酔独言 他 (平凡社ライブラリー)

夢酔独言 他 (平凡社ライブラリー)

再来―山本玄峰伝

再来―山本玄峰伝

ブログくまりんが見てた!Dhammacastの宣伝をコメントしたところ、エントリで「ひじる日々」を紹介して下さいました。文中、佐々木閑『インド仏教変移論』について触れられており、気になって読んでみた。僕がぜんぜん気にしていなかったうちに古代インド仏教史研究でもいろんな成果があがっているようです。以下はその記事へのコメントの形で書いた印象批評です。

インド仏教変移論―なぜ仏教は多様化したのか

インド仏教変移論―なぜ仏教は多様化したのか

内容(「BOOK」データベースより)
初期阿含仏教から後期密教まで、仏教はなぜこれほどまでに多様化したのか?全く異なる教えを説く教団が、お互いを仏教徒であると認め合えるのはなぜなのか?謎を解く鍵は、アショーカ王の時代に起こったひとつの事件にある。この事件は、大乗仏教の発生という巨大な現象を生みだし、仏教を根幹から変えてしまった。本書では、この事件の実態を追求し、仏教変容の根本原因を解明している。

こんにちは。エントリで触れられていた佐々木閑先生の『インド仏教変移論』恥ずかしながら未読だったので、さっそく取り寄せて拝読しました。インド仏教史については概説書程度の知識しかないので、たんなる印象批評ですが、徹夜して通読するほど面白かったです。
これまでどの仏教書を読んでもイマイチしっくり来なかった「根本分裂」「アショーカ王によるサンガ浄化」についてサーっと視界が開かれるようでした。上座部の史書である「ディーパワンサ」の読みに関しても、なるほどとひざを打ってしまった。
ただ感情と思い込みを圧縮したような「論文」の多い仏教学の世界で、これほどさわやかな「論証」が展開されている例も珍しいのではないかと、勝手に思っています。
パーリ聖典のあり方からすれば、政治的圧力によって律の改変が行われていたとしたら、それは「しぶしぶ」と後ろに接木するのは当然でしょう。大衆部のような徹底改変は、三蔵に対するサンガの態度としてはむしろ異例だと思います。ある意味、他のサンガからは札付きの連中だったのではないでしょうか?それがアショーカと仲良くなって、彼の宗教的事業欲を満たし、それがインド仏教に良くも悪くも大影響を及ぼしたのだとしたら…。これはなかなか面白いストーリーです。文学的なテーマとしても魅力的です。
しかしそれにしても、インド仏教史は、まだまだ資料が少ないなぁ、と思います。佐々木閑先生のシャープな論証にしても、ふとわれに返るとあまりにも僅かな資料に依拠しているという空しさを覚えました。南インドの地面をちょっと掘り返せば、すぐ書き換えられてしまうのではないかなぁ、という。
あと、個人的には、そんなの絶対ありえねー!と思っていた「大乗仏教在家起源論」を明快に否定してくださっているのは爽快でした。平川「大乗仏教在家起源論」は単なる学説というよりは、明治以降日本仏教が世俗化する中で、いよいよ出家と在家の区別が消滅していった戦後の日本伝統仏教が作り出した精神安定剤のようなものではなかったかと思います。また、主に日蓮系の在家仏教教団が隆盛を極めていったことを後から正統化する役割を果たしてきた面もあるでしょう。
明治以降のインド哲学仏教学のフレーム自体が、「(日本)仏教とは何か?」というアイデンティティ探求と自己形成の揺らぎのただなかにあったことは、僕のような門外漢でも『大アジア思想活劇』のための調査の過程で何となく肌に感じていたことでした。その「探求と揺らぎ」が現在進行形であることも確かだと思います。
いま現在の僕は、日本仏教の「探求と揺らぎ」を外側から俯瞰するというよりは、いま・ここで日本仏教を作り上げながらアレコレ悩んだり勉強したりする側に回ろうと勝手に決めているのですが…。
とまれ、ド仏教学の本もたまに読むと刺激になります。教えていただき、ありがとうございました。
お幸せでありますように。祈願衆生皆安楽

大乗仏教概論

大乗仏教概論

佐々木閑氏の最近のお仕事としては、鈴木大拙が長く封印してきた若き日の作品『大乗仏教概論』の翻訳があります。こっちは去年、たまたまワンギーサさんからお借りして一読しました。本文は絵に描いたようなひねりのない如来蔵思想のオンパレードで辟易しましたが、解説文で佐々木氏が大拙の仏教理解に対して容赦のない批評をしているのには、すげぇなこの訳者は、と舌を巻いたものでした。なるほど、インド仏教の研究者ならむべなるかな。

話を『インド仏教変移論』に戻します。詳しい論拠は同書を読んで欲しいのですが、佐々木閑氏の「根本分裂なんてそもそもなかったんじゃないの?」「部派の名前もアショーカの統合事業のあとで出来たんじゃないの?」とゆー説は、けっこう刺激的ですね。島史(ディーパワンサ)も大王統史も南伝大蔵経に入ってる(厳密には蔵外仏典か)けど、まぁ、史書ってのはアレですから。釈尊伝にしても、歴史的エピソードに関しては部派によってけっこうバラバラ。歴史は諸学の王とか威張ってる人もいるけど、実際はいちばんダラシナイ分野じゃないかな。厳密に守られてきた三蔵にしても、仏伝や仏教史に関するエピソードはまぁ所により話半分くらいに受け取ってもいいんじゃないかな、ということは、歴史認識をめぐる感情的な論争を横目にするまでもなく思います。自分もそうですが、宗派の歴史を語ろうとするときには、どうしても証拠を集めて正統派を立てようという意識、またはそれとは逆の証拠を集めて神話破壊をしてやろうという意識が、ムクムクと湧いてきてしまうものなのです。佐々木閑氏にしても、注釈を読むとその辺の思惑がチラチラと見え隠れして、ムカついたところもありました。やっぱ歴史はブロック遊び気分で愉しむに限るな??

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜