怨親平等

昨日、ゴータミー精舎で江原通子さんから靖国神社の歴史についてお話を伺った。江原通子さんは文藝春秋社の女性編集者として長く出版界に貢献し、日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー』にダンマパダの訳文を寄稿されている。自身もフィリピンで結婚二年あまりのご主人を亡くされた「靖国の妻」である(菊池寛は自分が江原さんのご主人をフィリピンに送り出してしまったことに強い負い目を感じていたという)。

遺族を代表して祭文を読み、靖国の宮司をも泣かせたこともある江原さんは、靖国神社を巡る現状を深く憂いていた。外圧を叫ぶのはいい。靖国をこころのよりどころにする多くの遺族の気持ちもわかる。しかし靖国神社(招魂社)はその成り立ちから、こころならずも「賊軍」扱いされてきた同朋を切り捨ててきたことを忘れてはならない。その差別的な祭祀のあり方は国境を越えた紛争の種となっている。しかし外圧によって日本国民が靖国神社を守ることに結集しているわけではない。靖国神社はいまだに日本人同朋に対しても、「官」「賊」の差別を続けている。

靖国神社をめぐる対立は、「外国の干渉VS日本の伝統」という架空の図式に収斂されつつ、憎しみの連鎖となってボディブローのごとく、徐々に日本人から理性を奪い、国を危険な方向に導きはじめているように見える。代替施設という、歴史を無視したあまりにも空疎な「政治的決着」に違和感を覚える人々(彼らがこころある日本人であることは否定しない)が、けんめいに護持しようとする靖国の慰霊の形は、しかし私たちの歴史のなかの最良の形なのだろうか? そうではなかろう。

お話のなかで江原さんが何度も仰ったのは、怨親平等(おんしんびょうどう)という仏教語であった。元寇という国難を経て戦死者を追悼した鎌倉びとは、敵も味方もなく死者は平等に弔った。むろんそれで戦争がなくなったわけではない。しかし私たちの父祖は、慰霊の場をめぐって「戦争の正当性」を争うような愚は犯してこなかった。敵も味方もみなともに同じ人間である、迷える衆生である。怒り憎しみを捨てていまは死者の菩提を弔うときである。

かつて日本じゅうの仏教寺院にはこの「怨親平等」の碑が建てられていた。また自分は父親から「お寺というのは怨親平等ということを教えるところなのだよ」と教わったものだ。しかしいま、日本のお寺で「怨親平等」の言葉を見ることは稀である。いったいどうしたことだろうか、と江原さんは仰っていた。

いまでは仏教徒さえ忘れてしまった、否、明治以降は積極的に切り捨ててきた「怨親平等」のこころに立ち戻ることによってしか、戦死者慰霊をめぐる憎しみの連鎖は解消されないのではないか。そんな思いを強くした。

※ちなみに靖国神社境内には鎮霊社とよばれるすべての戦争犠牲者を祀る神社もあるにはある。熱海市の興亜観音は東京裁判で南京攻略の際の虐殺の罪を問われ死刑判決を受け処刑された松井石根興大将が建立した観音像だが、日中双方の犠牲者を悼む怨親平等の精神を掲げる慰霊施設だ(興亜という「理念」に殉じた人々の顕彰という色彩が濃厚だが…)。興亜観音は靖国神社のみたままつりに灯篭を奉納している。だから単純な図式化はできない。それを踏まえての論である。

※仏教徒が怨親平等をいわなくなったのは戦前は国家権力への気兼ね、近年は「戦争責任の追及」を叫ぶサヨクへの気兼ねである。近代日本の仏教徒は多くの場合、その時々の時流に口裏を合わせることに必死で仏教そのものの思想を打ち出すことはしてこなかった。そして日本の仏教は完全にサブカルチャー化しつつある。

〜親しい人々、怨みある人々、生きとし生けるものは、幸せであれ〜