仏教用語は仏教の文脈で理解するという常識

曽我逸郎さんとのメールやりとりの続きです。こちらの「曽我から佐藤哲朗さんへ2005,3,12,」へのお返事。曽我さんの「何でもあり宣言」に唖然となって、こちらもテンションが下がっていたのですが、まぁ他にも読者がいるでしょうから、大切なポイントは記しておこうと思って書きました。長いので、ボールドでアクセントつけてみました。

曽我逸郎様

メールありがとうございます。

「輪廻<説>は経典成立前の教えの増広の結果である」という珍説は検証不能でまともに相手にしようがない(何とでも言える)としかコメントできません。「懸命に考えている自分」「懸命に考えている自分が考え出した結論」がいかに愛しいか、という表明としてしか読めませんでした。

まぁそれは置いておいて、「無我=縁起 こそが釈尊の真説であり、それと矛盾するように見える輪廻説は後世の混ぜ物である」という仮説が、文献学的に立証出来なかった場合、

  1. 「無我=縁起 こそが釈尊の真説である」が、それと矛盾するように見える輪廻説も無我=縁起 によって説明できる。つまり、自分のこれまで無我=縁起説の理解が浅かったことを認める。
  2. 「無我=縁起 は釈尊の教えであるが、それはインドで現在主流になっているアートマン説と矛盾しない。無我という訳語は非我と改めるべきである。
  3. 「無我=縁起 こそが釈尊の真説であり、それと矛盾するように見える輪廻説は後世の混ぜ物である」という仮説はあくまで正しい。文献学的な方法論では、釈尊の教えは確定出来ない。

大まかに言って3つの選択があるのだと思います。3)は方法論を放棄しても自説を守る立場。2)は仏教をインドの主流思想の立場に還元する立場。1)は釈尊の教えの体系を一貫したものとして理解しようという立場。

私は、1)の立場です。曽我さんは3)ですね。

文献学的に確定された経典によって、自分の仮説が立証出来ないというのであれば、自分の仮説がおかしいと考えるのが、理性的な人の選択だと思います。日本の知識人の間では理性はあまり重きを置かれていないようですが…。

1)の立場に対して考えられる批判としては、もっとも信頼出来ると仮定出来るパーリ三蔵にしても成立の順序があり、伝承の過程で後世の混ぜ物が入っていないとは断言出来ない点があります。曽我さんが仰る類型的な表現もそうです。しかし、文献学的に古層とされる教えとそれ以外のものに思想的な論理矛盾がなく、教えを実践する人が煩悩を削減し、悟りの階梯を上り、輪廻を解脱をするというシステムが現に機能しているならば、決まり文句や繰り返しといった「増広」は問題になりません。これは実践論からの弁明。初期仏教の伝統からは釈尊在世から今日まで四沙門果を得て解脱した出家の本懐を遂げた聖者を連綿と輩出して来ましたので、「結果を出してるんだ教えに対して、何か文句あるの?」と堂々と言えます。
仏教史の立場から弁明しますと、経典の「増広」は大乗仏典という異質な教えが登場した以後と以前ではまったく比較になりません。大乗仏教は経典の「増広」どころか捏造・偽造に依存しなければ成り立たないものであり、その編纂過程も明らかではない。それ以前の初期仏教ではサンガの結集によって経典の範囲が声聞サンガの環視のもと確定され、合誦によって繰り返し確認されていました。仏陀の教えを騙る経典の偽造・捏造自体が地獄に堕ちる大罪とされていたのです。故に上座部も、他の部派もエピソード的な伝承を除けば教えに大差はない。とにかく現代人には考えられない緊張感のもとで経典が守られて来た経緯があります。
どこかのお坊さんが自分の体験した境地を「仏陀の教え」として表現する、曽我さんも実践されていたような大乗仏教における経典制作プロセスを、仏教経典のスタンダードと考えて「まぁ初期仏教でもそんなもんだろう」と類推するのは間違いです。初期仏教に接するためには、そういう文化的に根深く規定されている日本人の偏見・固定概念を一旦保留しておく必要はあるのです。それが異文化に向き合うときの知識人の普遍的な作法です。

2)に関しては、仏教に対してしているのと同じ精度の文献批判・年代確定作業を他宗教の文献に対して行うと、徐々に成りたたなくなる傾向があります。やはり仏陀の教えの独自性を認めざるを得なくなるようです。中村元さんの弟子である宮元啓一さんの諸著作を読むとそのあたりの変化が読み取れます。

3)の立場を取る場合、依拠する判断基準が自分の主観や好みとなります。経典を読むときもつねに自分の主観や好みによって「読み」が阻害されるため、「疑」は消える事がありません。
「疑」によって教えの実践が阻害されるため、教えを実践する人が煩悩を削減し、悟りの階梯を上り、輪廻を解脱するシステムが機能しません。時間を徒に浪費する結果となります。
しかも悟っていない人間の主観や好みは、貪・瞋・痴に支配されているので、貪・瞋・痴を攻撃する教えを無意識的に破壊し歪曲しようとします。例:大乗仏教の本覚思想、如来による被救済思想などの成立過程を見て下さい。

曽我さんは自分が納得出来ればいつでも自説を撤回すると仰っていますが、そのためにはまず仏教で説いている「縁起」「無我」「我」「輪廻」の定義を学ばれる必要があると思います。
俗的な、あるいは曽我さんの固定概念で構築した「縁起」「無我」「我」「輪廻」の定義を、仏教にぶつけても意味がありません。「それはあなたの勝手な考えでしょ」で終わりです。
特に大乗仏教の思想に影響された学者の説明は概念上の混乱が甚だしいので、それを背負ったままで初期仏教にぶつかると余計に混乱されるでしょう。
ましてや、現代人の俗的な観念としての唯物論を援用した無我説とヒンドゥー教的な理解に基づいた輪廻説をぶつけて、「なんだ、矛盾してるぞおかしいぞ」と文句をつけるのは無茶苦茶です。そんなの釈尊の知ったことではありません。
自分の固定概念が通用しないから、逆ギレして仏教そのものを破壊してやろうと頑張る結果になっておられるのは、たいへん残念です。

たいへん勉強家の曽我さんに向かって失礼かもしれませんが、仏教に文句をいう前に自分の固定概念への愛着を断って、「仏教に文句をつけている自分」を構成している固定概念や信仰・好みというものを客観的に把握して、それを一旦棚上げしてみては如何でしょうか。そうした上で、仏教の文脈で仏教を学ぶならば、べつに輪廻と縁起=無我には何の矛盾もないことが分かる結果になると思います。僕は現に、何の矛盾も感じていません。ダンマパダ(法句経)の第一・第二に説かれている事を「なるほど本当だ」と確認出来れば、その点の「疑」は消えます。たとえいま現在「疑」がなくなっていないとしても、「仏教はダンマパダ(法句経)の第一・第二に説かれている事を「なるほど本当だ」とする聖者が説かれた教えなのだ」と理解すれば、無我を説く仏教が同時に輪廻をいうことくらい別にどうってことがない、と分かると思います。

とにかく、仏教用語は仏教の文脈で理解するという基本的な態度は欠かせません。旧約聖書に「空」という言葉が出て来るかといって、それを龍樹の空思想で解釈するのは無理なのと同じことです。同じように、初期仏教の文献を読む場合に、大乗仏教の概念を勝手に援用するのは学問的態度とは言えません。その点を理解して頂いた上で、学道を歩まれますように。

お幸せでありますように。

祈願衆生皆住無憂
佐藤哲朗
(公開はご自由に)

生きとし生けるものが幸せでありますように。