{現代仏教論]輪廻非仏説論はゴミ箱に捨てましょう

流れとしては、こちらのメールに対する曽我逸郎さんお返事(こちらの「曽我から佐藤哲朗さんへ2005,3,11,」)を受けた僕のメール。

やりとりを全部読んで頂くと、輪廻をお釈迦さまの教えから排除しようという頑張っている論者の人々がしょーもない詭弁を使わないと自説を守れないところまで追い詰められている様子(曽我さんはよく勉強されているので、輪廻非仏説論を信じ込んでいる仏教好きインテリの水準を示していると思います)が分かると思います。

曽我逸郎様

こんばんは、佐藤です。
お返事(こちらの「曽我から佐藤哲朗さんへ2005,3,11,」)ありがとうございます。

しかしなんとゆーか、失礼ながら苦笑を禁じえませんでした。

だって、『ダンマパダ』と『テーラガーター』に関する曽我さんの論考は、曽我さんの想像以外に根拠がないと堂々と開き直って宣言されているんですから。

現代人が納得する「常識的な推察」として成り立たせるためには、少なくとも、ダンマパダの当該箇所が、テーラガーターのそれよりも新しいことの傍証くらいでも出してもらわないと…。でなければ、なぜシヴァカ長老の言葉「が」釈尊の言葉として伝えられるようになったのか、まったく説明できません。「私がそう思う」というだけならば、話にならない。

>経典、あるいはその一節の「文献」としての新旧を論じても、この場合、あまり意味がないような気がします。言葉の一人歩きは、経典成立以前におこったと考えますので。

こんなことを言い出したら、もう何でもありですよ(笑)。釈尊が輪廻を説かれた事実は、漢訳阿含・パーリ三蔵に経証として山盛りに残っていることです。これだけで充分なのに、さらに科学的な精査にもとづいて(いまのところ)確定されている最古層の経典にも、輪廻を前提とした教えが歴然と現れています。

> これらを読めと仰ったということは、佐藤さんは、私を大乗の徒と考えておられるのでしょうか? 私は、釈尊の教えにこそ学びたいと思っているのであって、けして大乗の徒ではありません。同様にテーラワーダの徒でもありませんが、、、。

う〜ん、そうではないんじゃないですか?曽我さんは釈尊の言葉から、「無我=縁起(の断滅論的解釈)」を自分の理解能力で抽出しました。それはよし。それで次に、気に入ったその概念の解釈尺度に合わなければ、釈尊の教えであっても片っ端から否定している。で、大層な根拠があるのかと思ったら、ただ「自分がそう思うから」というだけで。

とにかく、「言葉の一人歩きは、経典成立以前におこった」などという強引な解釈をしない限り、釈尊が輪廻を否定したということは学問的には言えなくなっています。「ブンガク」的にはどうか知りませんが…。輪廻否定派は、そこまでは追い詰められているようです。

そこで野暮ですが問い返したいのです。釈尊の言葉のカケラを固定概念や妄想でガチガチに塗り固め、いま・ここで「一人歩き」させているのは、まさに曽我さん、あなたではないですか? 過去のことではなく、「いま自分が何をやっているのか」を客観視してみて欲しいのです。

大乗仏教で勝手に経典を作り出したのは、「自分が正しい」「自分の経験こそが最終結論である」と思いたがる煩悩具足の人間の「弱点」です。その意味では大乗仏教のような体系が出来上がったのは人間らしい出来事です。

曽我さんも僕も、その人間の弱点を共有しています。しかし大乗仏教的な仏教アプローチの伝統を自分のなかで相対化できていないが故に、そこに換えがたい魅力を感じているが故に、経典の中から抽出した「言葉の一人歩き」をいま・ここで再生産してしまっている。僕なりに、仏教思想史的に曽我逸郎さんを分析するとそういう姿が浮かび上がります。

> スマナサーラ長老は宝泉寺でのインタビューで「輪廻転生は、釈尊が初めて発見されたことで、それ以前にはなかった考えだ」と私に仰いました。しかし、文献学的には、輪廻転生はウパニシャッドや外道の師達も説いており、釈尊以前からインドに定着していたと考えるべきでしょう。(御推薦の宮元啓一さんも『仏教誕生』(ちくま新書)の第1章冒頭からそのことを説明しておられます。)

ふむふむ。提案ですけど、知識人であるならばインタビューで聞いた片言隻句に拘っていないで、その説明にはどういう背景があるか、ということも調べてみては如何でしょうか?長老ともあろうお方が、理由もなしに、あるいは単なる身びいきでそんなことを言っていると思われますか?

乏しい知識ですが、ちょっと説明してみます。曽我さんはパーリ長部の第一『梵網経』(南伝6巻など)を読まれたことはあるでしょうか? 輪廻として知られる現象については、釈尊の時代の瞑想修行者も発見していました。自らの過去世体験をもとにして、思想哲学を編み出していたのです(と、『梵網経』では説明してあります)。

経証によれば、お釈迦さまは彼ら修行者のそれぞれ体験は認めていました。しかし、その体験から導き出した思想哲学は批判したのです。なぜなら彼らは輪廻について「知り尽くした」わけではなく、それぞれの限られた認識能力の範囲で導き出した思想哲学に過ぎなかったからです。(そういうことを延々と述べた経典がパーリ長部の筆頭に置かれるということ自体、輪廻説が後世の混入物だとしたらおかしな話だと思いますけどね)。

輪廻転生について、不充分な発見は釈尊以前にもありました。禅定修行自体は仏教以外でもやっていましたからね。輪廻転生について初めて知り尽くし、説明し尽くしたのが釈尊なのだと、経典を読めば何の矛盾もなく説明できます。輪廻を知り尽くした上で、縁起説が成り立っているのです。ちなみにウパニシャッドは輪廻をある程度知る仙人からの聞き書き程度の代物で、しかも釈尊の時代より後に成立した可能性もある文献です(あいまいあやふやなものほど古いと思ってしまうことも、進化論的な偏見に毒された文献学者の陥りやすいところです)。

とにかく、オススメした宮元啓一さんも含めて、自らの経験の範囲でのみお釈迦さまの教えを受け取っています。それで『これが最初の仏教だ!』と威張ったりしている(笑)。でもみんな一切智者の手のひらに居ます。それは古代もいまも変わりません。自分の経験・認識能力の範囲内でだけお釈迦さまの教えを認めてやろう、評価してやろうという限界は文章を読めばありありと見えますからね。

それでも、自分の理解範囲で受け取った教えを役立てて自分の人格が向上させるならばいいのです。人間だもの。教えによって煩悩が減れば素晴らしいことです。

しかし、「自分の理解範囲で受け取った教えのみが釈尊の教えだ」と考えるのは明らかに邪見です。

釈尊は、前便でご紹介したカーラーマ経を読まれれば分かるように、来世を信じない・想定しない在家の人々にも、信じないままで実践できるような教えも説かれました。それは釈尊の親切であって、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、ご自身の直弟子である比丘たちに対しては何のこともなく極々当たり前のこととして、集中力の訓練によって思い出せる事実として、輪廻を、…輪廻の恐ろしさを語っていたのです。そして「わたしは指をパチンと弾くほどの時間も『有』を賛嘆したことはない。神とか梵天とか、そんな境地は糞と同じだ。輪廻を脱出するために励めよ」と比丘たちを叱咤激励していたのです。

> 経典には、様々な相矛盾する言葉があります。それらの中から、仏教だけのユニークな教えを釈尊の教えとして捉え、それに矛盾するものは、あとから混ざり込んだものとして排除すべきだと思います。

大賛成です。お釈迦さまが知り尽くし説明し尽くした輪廻を、「自分様には分からないから」と否定しようとする断滅論は、「仏教だけのユニークな教え」でも何でもない、現代人の偏見の産物に過ぎません。近代になって、仏教が滅びた・または堕落した社会において、後から混ざりこんだ(まさにいま、曽我さんが混ぜ込んでいる)ゴミの教えです。釈尊の教えと矛盾するので排除すべきだと思います。

繰り返しますが、過去のことではなく、「いま自分が何をやっているのか」を客観視してみて欲しいのです。釈尊は曽我さんのようなお考えの方についてどう語られているでしょうか? 経典の中にいろいろと興味深い言葉が見つかることでしょう。

また長くなりました。表現がきつくなってしまった失礼をお許しください。でも僕が言いたかった「曽我さん、そこが変だよ!」というポイントが、曽我さん自身のメールによってずいぶん明確になった気がします。感謝いたします。

では、お幸せでありますように。

祈願衆生皆住無憂
佐藤哲朗
(公開はご自由に)

で、それに対して、曽我さんもお返事(こちらの「曽我から佐藤哲朗さんへ2005,3,12,」)を下さったのですが、どんなに非論理的であっても屁理屈であっても、「懸命に考えている自分」「懸命に考えている自分が考え出した結論」がいかに愛しいか、という表明としてしか読めませんでした。

無我と輪廻の関係を知りたければ、それなりに「仏教の言葉の定義」を勉強しなければなりません。輪廻=梵我一如・アートマン説、無我=断滅論、とゆー世俗的な言葉の定義をそのまま使って、仏教に文句を言われても困ります。そういう初歩的なことも分からないほど、現代人は知的なのです。だから自分の固定概念こそが大事で、箔付けにブッダでも使ってやろう、という人々が絶えないのです。

生きとし生けるものが幸せでありますように。