武者小路実篤『釈迦』

中野にて武者小路実篤のブッダ伝『釈迦』(昭和9年 大日本雄弁会講談社)を購入。偉人伝を多作していた時期のものらしい。文学史的には「余技」かもしれんけど、さすがは白樺派、なかなか読み応えのある本でした。漢訳阿含の仏伝を中心に構成されているところも、逆に新鮮でした。妙な知ったかぶりもなく、資料に余計な解釈を加えずに、近代人の価値観に依拠しつつ釈尊への敬意は失わず、しかし文士の「腕」をふるうべき所は弁えて仕事をしています。修行や成道の描写になると急に描写が平板になる難はあるものの、仏「伝」の肝であるエピソードの拾い方は上手い。粗忽者だけど憎めないキャラの迦留陀夷尊者はじめ、仏弟子のエピソードも活き活きしていました。ちまたに横行する中村元『釈尊の生涯』(平凡社ライブラリ−) の受け売り劣化コピーまがいのしょーもない釈尊伝に比すれば、モノは古いがこっちの方がぜんぜん良心的だと思いました。奥付けを見ると「昭和16年9月25日 109版発行」とあるので、かなり読まれた本なのでしょうか。

後書より実篤の言葉を引きます。

なぜこの本をかいたか。この本の価値については他の人に任せる。
 僕は別に新しい解釈をしようとしなかった。ただ釈尊を人間として何処までもあつかっただけだ。
 ただ人間だが、佛陀になった人間だと思っている。佛陀は阿那律にこうおっしゃっている。
『阿那律、諸佛世尊は皆同一なり、戒律を同じくし、解脱、智慧を同じくするも、ただ精進のみ同じからず、過去当来の諸佛世尊中精進に至りては、我を以て最も勝れたりと為す。』
 この言葉は意味深長と思う。
 ここに佛陀の佛陀たる処があるように思う。あとは本文に任せたい。
 自分は学者ではない。しかし赤児の心を持って佛陀を見得る一人だと思っている。そこにこの書の特色があればあり得るように思っている。(十月十五日)

ふと見返しを眺めると「中◯さんの召集を知った日に 神田で 2602.1.5.」と書き込まれていました。

生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように。