塩のひとすくい

増支部経典では、誤解されることの多い仏教の「業論」についても、示唆に富む教えが数多く掲載されています。そんな中から「塩のひとすくい」として知られる教えをご紹介(写経)したいと思います。漢字は一部略字体に変更、一部仮名に開いています。

一 比丘衆よ、人あり、是(かく)の如く言はんーー人は造れる業のあるに随って、それだけ業〔の異熟(いじゅく 業の果報・行為の結果)〕を受く、とーー是の如くならば〔人が〕梵行に住することあらず、正しく苦の辺際を作すことの有り得べきことが認められず、 また比丘衆よ、人あり是の如く言はんーー人あり、まさに受くべき業を造るに随って、彼はそれだけの異熟を受く、とーー比丘衆よ、是の如くならば〔人が〕梵行に住することあり、正しく苦の辺際を作すことの有り得べきことが認められる。
 比丘衆よ、世に一類の人あり、少量の悪業を造りても、業が彼を地獄に導く、比丘衆よ、また世に一類の人あり、全く同じ少量の悪業を造りても、ただ現法(この世)において〔異熟を〕受け〔未来〕に少量〔の異熟〕も現れず、ただ多の〔業の異熟〕のみ〔起る〕。

二 比丘衆よ、如何なる人の造れる悪業は少量といえども其が彼を地獄に導くか。
 比丘衆よ、世に一類の人あり、身を修せず、戒を修せず、心(禅定)を修せず、慧を修せず、狭小に、自体賤劣に、〔小異熟のために〕苦んで住す、比丘衆よ、是の如き人の造れる悪業は少量なりといえども、其は彼を地獄に導く。
 比丘衆よ、如何なる人の造れる少量の悪業は全く其と同じといえども現法において〔異熟を〕受け〔未来に〕少量〔の異熟〕も現れず、ただ〔業の異熟〕のみ起るか。
 比丘衆よ、世に一類の人あり、身を修し、戒を修し、心を修し、慧を修し、狭小ならず、自体偉大に、無量に住す、比丘衆よ、是の如き人の作れる悪業は全く其と同じく少量なりといえども現法において〔異熟を〕受け、〔未来に〕少量〔の異熟〕も現はれず、ただ多の〔業の異熟〕のみ〔起る〕。

三 比丘衆よ、たとえば人あり、一掬の塩を一椀の水の中に投ずるが如し、比丘衆よ、汝等は其を如何に惟(おも)ふや、かの一椀の少水はこの一掬の塩に由って塩辛くして飲むべからざるに非ざるか。
 大徳よ、然り。
 其の故は云何。
 大徳よ、椀の中のかの水は少なし、水はかの塩のために塩辛くして飲むべからざるなり。
 比丘衆よ、譬へば人あり、一掬の塩を恒伽河(ガンガー)に投ずるが如し、比丘衆よ、汝等は其を如何に惟ふや、かの恒伽河はこの一掬の塩のために塩辛くして飲むべからざるか。
 大徳よ、其は然らず。
 其の故は云何。
 大徳よ、恒伽河の中の水聚は大なり、其の水聚はこの一掬の塩に由って飲むべからざるものとならず。比丘衆よ、正に是の如く、世に一類の人あり、少量の悪業を造っても、其が彼を地獄に導く、また一類の人あり、正に其と等しき少量の悪業を造りても、現法に〔異熟を〕受けて、〔未来に〕少量〔の異熟〕も現はれず、ただ多の〔業の異熟〕のみ〔起る〕。(以下略)

増支部三集第五 一掬鹽品九(南伝大蔵経17巻pp409-416)

運命論・決定論のように誤解されている業論と、仏教本来の業論との差が明解に示された経典です。人はしばしば過ちを犯します。しかしブッダの教えを学び、心をガンジス河の如く大きく育てたならば、その過ちの結果も違ってくる。心の因果法則を深く信じて、心を大きく育てるのが仏道です。幸福への道であるから、ブッダはそう説かれたです。
〜*〜* 生きとし生けるものが幸せでありますように *〜*〜