クリスチャンとの議論

ブッダの智慧で答えます 生き方編

ブッダの智慧で答えます 生き方編

日本テーラワーダ仏教協会の議論掲示板で、スマナサーラ長老の新刊『ブッダの智慧で答えます 生き方編』の内容をめぐって、キリスト教徒の方とやりとりする機会がありました。備忘録代わりに、自分の発言部分だけ掲載しておきます。誤解なきよう、元スレッドも読んでみて下さいね。

肉食をめぐる疑問

Q:『ブッダの智慧で答えます 生き方編』では、肉食を避けるべきと言っている。それを(同じ仏教徒である)親鸞聖人が聞いたらどう思うか?(要約)

A:投稿ありがとうございます。

えっと僕も『ブッダの智慧で答えます 生き方編』の制作に関わりましたが、本書に「肉食を避けるべき」という発言はありません。 第4章 質問42家畜たちの恨み(p118) に、食肉にされるために殺される動物は人間を恨んでいるか?という質問がありました。

たぶん、その答えを誤読されているのではないかと思います。この質問への答えも、「どんな生命も死を怖れる」という客観的な事実を述べているだけです。

また、お釈迦さまの教えは、その行為が(1)心の成長のためになるかならないか、(2)心を堕落させるかさせないか、ということを厳密に明らかにした上で、やるべき行為、やめるべき行為を厳密に定めています。

お釈迦さまは「殺生しない」という生き方を、理性ある人の生き方として勧めています。そうやって気をつけて生きることで、心が清らかになるというのは、賢者によって実証済みだからです。理由もなしに「○○の肉を食うな」とか、不条理な戒律は説きません。

まぁ、もし親鸞聖人がお釈迦さまの教えを知っていたら、その教えに素直に従ったんじゃないかと思います。推測ですが…。

スマナサーラ長老も他の様々な宗派の方と一緒に法要をされますし、宗教の立場を超えて法話もされます。クリスチャンにも、イスラム教徒にも、無神論者にも、ワケ隔てなく法を説き、冥想を教えます。ダライラマさんに限らず、仏教徒の生き方ってのはそんなものなのです。

でも、ご機嫌とることで人が成長することはないので、誰にも曲げられない真理を堂々と語るのです。

〜*〜生きとし生けるものが幸せでありますように。〜*〜
(2004/10/24)

不殺生の教えは差別思考

Q:肉食についての記述は誤読でした。しかし、「殺生をさけるべき」というならば、畜産業者はどうすればよいのか?部落差別のことが気になる。(要約)

A:上記の疑問については、『ブッダの智慧で答えます 生き方編』第6章:質問64なぜ殺生してはいけないのか(p190),質問65不殺生は実行不可能(p192) に仏教の立場からの答えがあります。

お釈迦さまは2500年前、激しいカースト制度の中で人間の平等を説きました。どんな階層の生まれであろうが、正しい生き方を実践することによって、最高の賢者となれる、善き人間となれるのだと説かれました。道徳的に勝れた人こそが、尊敬されるべき人です。だから、差別は断固として反対です。欲と怒りにまみれたアホな人々が勝手に決めたカースト差別や身分差別を宗教的に正当化することはありえません。

しかし、普遍的真理を実践するか否かを決めるのはその人自身の選択です。人にあわせて真理を曲げることは出来ないのです。

「畜産業者の人は殺生しないといけないのだから、仏教で不殺生を説くのは止めよう」という思考は、「いまは国家の非常時だから戦争で大量殺人をすることを批判するのは止めよう。仏教徒も積極的に戦争に協力しよう」という思考に繋がります。

実際に日本の大乗仏教指導者のほとんどは、先の大戦でそのような邪見に陥り自滅しました。12月8日の成道会の真珠湾攻撃が成功し、4月8日の仏誕会(花祭)にシンガポールが陥落したといって大喜びしていたのです。しかし、負けが込んでくると「皇国の民が奉ずるべきは仏陀ではなく天皇陛下である」と、仏教徒であることすら捨てることを、仏教指導者自らが呼びかけたのです。

みんな隠していますが、日本の多くの仏教指導者は、戦時中に事実上「棄教」したのです。(^_^;

私がそういう日本仏教徒の情けない歴史を述べるのは、仏教徒が不殺生の教えを捨てて時勢におもねることが完全な邪見であり、あやまちであり、自己破壊に導くことをはっきり知っているからです。あやまちに学ばないのはアホですよ。

釈尊の説かれた教えはそれほどに厳密であり、くらますことは絶対に出来ない真理なのだと、仏教徒の私は宣言します。幸福に生きるために必要な道徳として、「不殺生」[を]捨てることは決してできません。

おしゃべりが過ぎました。参考になれば幸いです。

〜*〜生きとし生けるものが幸せでありますように。〜*〜
(2004/10/25)

仏教は反差別運動をしていない

Q:(仏教の考え方は分かったが)具体的な行動として、仏教は部落差別にどう取り組んでいるのか?浄土真宗、カトリック、プロテスタントでは勉強会や市民運動への参加をしている。(要約)

A:仏教徒という変な立場から答えるならば、社会的・世俗的な活動にどれだけ参加しているかということで教えの尊さが決まるというのは笑っちゃう話です。「差別しろ」というにせよ「差別はいけない」というにせよ、同じ無知な人間がその時々の価値観で勝手に言っていることです。「社会が決めた反差別運動に参加しない奴はけしからん」といって、また他人を差別するのが人間という面白い生きものです。

大切なのは、差別感に骨がらみになっている自分自身が、どれだけその差別感という心の鎖から解き放たれているか、ということです。それには自分を見ると云うことをしなければ永遠に分かりません。

仏教徒は、差別に苦しんでいる人々には、当然のこととして手を差し伸べています。でも、「差別に対する怒りによって自分を正当化しよう」という気持ちで、自分を貶めることはしないのです。

ミャンマーでも、貧しい仏教徒の村にプロテスタントの宣教団が乗り込んで、「キリスト教に改宗するなら毎月○○の金をやる」といって、札束で頬をひっぱたきながら、信者を増やそうと頑張っています。徹底した、これ以上ないほどの差別意識でもって、偉大なる神の愛を広めようとしているのです。

部落差別にまさるとも劣らない汚い差別主義の実践が、いま現在世界中で実践されているのです。そういう事実を見てほしい。そしてそういう汚い世界にあっても、怒りの炎で自らを地獄に落とすことなく、差別感のない、清らかな心を育ててほしい。心・言葉・身体を使って、差別感のない生き方を実践してほしい。そうやって私は幸せをつかんだのだから。というのが、お釈迦さまの不変なるメッセージです。

参考になれば幸いです。

〜*〜生きとし生けるものが幸せでありますように。〜*〜
(2004/10/26)

参照:元スレッド