魔とその克服法~自分にとっての魔とは何か?~(スマナサーラ長老の法話より)

『魔とその克服法 自分にとっての魔とは何か?』

 

日時:2012年9月23日午前 

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

主催:F.E.ヨガライフ協会

 

マーラ、悪魔、悪しき者などなど、世界中で「魔」という言葉を使います。日本語にも「魔が差した」 という言葉があります。これは、かっこいい用法だと思いますよ。普段なら自分はやらないだろうこと、なぜやってしまったか分からないことについて、「魔がさした」と言うのです。

 

宗教の世界では、神がいると必ず悪魔もいるのです。神は人間を慈しんで守るはずですが、その約束を守らないのです。神に守られているはずの世の中はすごく生き苦しい。身体はいくら面倒を見ても壊れてしまう。生命のなかでも、食べるものを見つけるのが難しいのは人間です。朝から晩まで働いているのも、結局は食べるため。私たちは、(神の恩寵ではなく)弱肉強食の社会に生きています。

 

人間は、やるべきでないことは喜んでやる、やるべきことは脅さないとやらない、のです。

世の中に悪いこと起きるたびに、なんでも悪魔のせいにすればいいから楽です。たまさかいい事があると神を讃える。不況になると世界経済状況のせい。好況になるとアメリカのおかげです。自分で責任取りたくないからだれかのせいにする。自分の努力・行為の結果とは言わないのです。

 

バチカンには悪魔学まである。イエスもエクソシストだった。私はそういう悪魔の話は真っ赤な嘘だと断言的にいうのです。「他人を指差したい」という悪い性格のために世界中に大量に悪魔の観念が生まれている。また、悪魔にも民族性があるようです。

 

悪魔とは、客観的に見ると誰にでもある「人のせい」にしたがる性格の産物なのです。

 

人間は誰でも失敗するのです。そこで「人のせい」にしないで、素直に謝ればいいのに。懺悔するという習慣があります。仏典では懺悔を厳しく言うのです。(他宗教は見えない神に懺悔する。それで性格が更正するのか。私は、人間が失敗したら造物主の神の責任でしょう?なんで人間が神にあやまるのか?と文句を言います。)仏教では短い法要文句にも懺悔が入っている。誰でも失敗するのですから、懺悔してまた前に進むことです。

 

……(ここのあたり眠気が出たので不正確^^;)

 

悪魔の十軍(スッタニパータ3章) 悪魔とは、やるべき事をやらないで不幸になる原因です。自分の精神的な弱味を指すのです。

 

仏典には神霊の悪魔も出てくるが、釈尊の邪魔(いたずら)する程度。

 

経典で釈尊と対話する悪魔は、俗世間の価値観を正当化する立場を代表しています(例:相応部マーラ相応など)。

 

釈尊は人生の表だけでなく裏を見なさいと言っている。現代的にいえば、原発が電気作って便利な事は否定しない。しかし事故起こしたらどうするの?廃棄物はどうするの?と。悪魔は人生の表だけを見て正当化しようとする。

 

ほんとうの悪魔は、私たち一人ひとりが持っている。ヤバイことしたら隠したくなること。喧嘩したらあいつが悪いと思う、「自分が正しい」と思う。それも相当、悪魔にやられてることです。人のせいにしたくなったら、自分の魔にやられてるのです。

 

自分の弱みを発見できないようにする心の働きが「悪魔」です。

 

世界一優秀な先生が教えても、子供が学ばなければ勉強できない。自分の弱みを発見することが学びです。「自分にはこれができない」と、自分の弱みを見つけて何とかしようと思うところから、「これをできるようにならなければ」と思うところからが学びの始まり。

 

人間にとって大切なことは、自分の弱みに気づくことです。人間はそれを却下するのです。我は正しいと思うのです。それに釈尊は「魔」という。「それで人生は終わりだよ。成長はそこでストップして、みるみる壊れて行くんだよ」と。

 

仏教ではすべては変化し続けるといいます(無常)。変化は二種類。向上か、堕落か、です。残念ながら現状維持はないのです。進むか後退するかしかない。なぜ、あえて後退する道を選ぶのか。それが魔です。皆さんは家族の誰よりも魔と仲良く生きている。だから脅さないと善いことをしないでしょう?

 

では、魔の克服法は? それは「つねに自分の弱みの気づきましょう」ということです。気づいたとたん、何とかしましょうという気持ちが起こる。

 

時々、「しょうがない」と思うでしょう?「しょうがない」というのは(自分の)魔が言っていることなんです。自分の性格に関しては、決して「しょうがない」と言ってはいけない。魔がはっきり「あんたは成長しなくていいんだよ」と唆しているのですから。

 

私たちは魔に負けっぱなしです。

 

でかい大脳あるのに、人間はそれをほとんど使ってない。人間にとって大脳が無用なら退化するはずです。人間の大脳が大きいのはそれが人間にとって必要だからなのです。

 

大脳に覆われた原始脳には考える能力がない。生きていきたいという衝動のみです。それで大脳にあれこれ感情を引き起こします。「生きていきたい」という渇愛と、それに反する(生きていけないという)情報への恐れ。生命はこの二つに支配されて生きているのです。私たちは対象を認識する時、まず対象を「敵か、味方か」と判断します。原始脳に理屈はない、データを処理する能力がないのです。頭がいい人間も、そうでない人間も、原始脳に支配されて生きています。だから、優秀な知識人も大量破壊兵器を開発するのです。ただ「敵を潰す」という原始脳の衝動で生きているのです。

 

核兵器も、「私は持ちますけど、貴方は持ってはいけません」という態度(核不拡散条約体制)。

 

原始脳は魔が住んでいる場所です。だから人間は何をやっても矛盾で終わるのです。根本的に、魔に支配されて、魔の支配下に生きているのです。ですから私たちは、渇愛に打ち勝たなければいけない。恐怖感に打ち勝たないといけない。「どうせ壊れる身体だ」と、肉体への執着を捨てるのです。原始脳の命令を聞かないことにするのです。

 

(*ヨーガをする人たちに向けて)「健康な身体はのために健康な心を」というのはアベコベです。なによりも健康な心をつくらなくてはいけない。身体のことは放っておくこと。どうせ壊れるものだよと。我々はビニール袋が欲しくて買い物するわけではないでしょう? やっていることが変ですよ。

 

美味しいもの贅沢を探し求めて寿命が縮む、病気になる。原始脳は理性がないから、刺激を求めて自己破壊してしまう。身体は機械・道具だと理解して、肉体への執着を捨てれば、身体は植物だから寿命までスムーズに使えるのです。

 

仏教の瞑想法は脳科学と一緒にしてはいけないのです。仏教は心というもっと大きな世界を扱っています。しかし、分かりやすくするためにあえて脳の構造で説明すれば、それは「原始脳の言うことを聞かないようにすること」です。そうすれば失敗しない。(瞑想で)悪魔を潰すんです。悪魔を折伏すれば理性がすべてを担うようになります。瞑想に成功した人の心には、欲・怒り・嫉妬は入らない。その代わりに慈しみが入るのです。生命に対して心配する気持ち、協力する気持ちが起こる。物事を貫いて見られる、ものすごい智慧が生まれるのです。

 

感情でやったことは99.9%まちがっています。比丘は何のために食べるのかと、よく理解して食べる。決して欲で食べない。そうすると一日一食でもからだを維持できるのです。

 

我々はなぜ、食べることで病気になるのか。そこには心の問題があるんです。心が悪魔に占領されているんだから、身体を維持するためではなく欲で刺激を求めて食べているから、食べ物によって病気になるのです。心を落ち着けて、悪魔に負けないようにすることです。自然の食べ物は、身体が受け入れます。悪魔が割り込むから、マズイと思ってしまう。子供はちゃんと自然のものも美味しさを見分けます。

 

(講演おわり。以下質疑応答より。助手をしたので、メモ断片的です。)

 

Q 日常生活の気持ちの変化とどう付き合えばいいのか? ある時点の気持ちの状態と一体化して、なかなか離れられない。

 

私たちは、ずっと楽しい気持ちでいたいと思っていますが、気持ちには波があるんです。嫌な気持ちになるのは嫌だけど、なってしまう。一生いい気分でいようというのは答えじゃないんです。そうではなく、気持ちの波は放っておいて、リラックスしましょう。変化し続ける気持ちを相手にすると、どうなるか分からない。感情が足枷にならないようにして、自分の気持ちはどうでもいいから、これをやりますと。やるべきことをやるのだと、自分を戒めることです。感情は自分で育てない限り、さっさと死にます。暗い気持ちになっても、「ちょっと待て」と放っておくと、その感情は死にます。

 

……

 

(依存症の恐ろしさについて)

 

私たちは、善悪の間で揺れる優柔不断によって助かっています。生き方が曖昧なうちは、まだ治療可能性があるんです。依存症の人はやりたいけどこれはマズいなぁ、と気持ちが揺らがない。悪いことに開きなおったような状態です。何があっても気にせずに、悪い方向に進んでしまう。その人は、人格向上のチャンスを失ったということです。悩んでいるうちは見込みがあるんです。

 

……

 

(時間配分について)

 

時間よりも大事なのは「優先順位」です。優先順位をつけたやることリストを作っても、時間がなくて一生やらない事があるかもしれない。それでーもOK。いますべき事をやっていれば、魔に支配されていないのです。人生は時計に操られるのではなく、優先順位に操られるべきです。

 

……

 

(人を判断するなかれ)

 

自分で相手のことをあれこれ判断する。それも魔の仕業です。基準は自分なんです。それで気持ち悪くなったり怒ったり嫌な気分になったりする。マナー違反の人を見ても、「自分の基準からしたらとんでもないことしてるけど、この人にもそれなりの理由があるんでしょう」と落ち着く。注意する場合も、判断して腹を立てるのではなく、相手の振る舞いを冗談・漫才にしてみることです。そうすると、相手の頭にも注意されてる内容が入るのです。感情で人を貶さないことはすごく大事です。他人は放っておいてください。嫌だったら、自分が避ければいい。人を判断するのは良くないのです。

 

(質疑応答 終わり)

 

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心を整える8つの脳開発プログラム

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生きとし生けるものが幸せでありますように。