パーリ経典講義『在家を尋ねる』経,『老い』経 マハーカッサパ尊者に学ぶ出家者の生きかた(スマナサーラ長老の法話より)

2011年12月13日ゴータミー精舎パーリ経典講義

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 5. Kassapasaṃyuttaṃ

相応部経典 因縁篇 5.カッサパ相応
http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul4.xml

4. Kulūpakasuttaṃ 在家に入る (出家が)在家の家を尋ねる、という内容の経典。

 

釈尊:在家の家を訪ねるにふさわしい比丘とは、どのような比丘でしょうか? 在家を訪ねるに相応しくない比丘とは、どのような比丘でしょうか?

 

比丘たち:我々の師はお釈迦様ですので、お釈迦さまから説明してください。

 

(解説:見事に逃げる)

 

釈尊:もし比丘が、このような考えがあって在家の家族を訪ねるならば……

 

(解説:比丘はただ托鉢するために村に入る。家の前で少々の時間立っているだけ。それにしてもそれに相応しい比丘と相応しくない比丘がいると説いているのです。)

 

ーこのように考えるー『必ず、私にお布施(食)を貰えますように、貰えないことがないように』と期待希望する。『くれるならば、ほんのちょっとではなく、たくさんお布施を頂けますように』と期待希望する。『もらえるならば、不味いものではなく美味しいものを貰えますように』と期待希望する。『さっさと待たせずにお布施してくれるように』と期待希望する。『ぞんざいではなく、丁寧に礼儀正しくお布施をしてくれますように』と期待希望する。ーこんな事を考えた比丘が家々を訪ねると、もし何も貰えないと、その比丘は不機嫌・不快を感じて、苦しみ悩みを心で味わうはめになります。少量しか貰えないと……、粗末なもとしか貰えないと……、ゆっくり貰うことにあると……、丁寧に対応されないと……、その比丘は不機嫌・不快を感じて、苦しみ悩みを心で味わうはめになります。こんなふうな比丘は托鉢にでるに相応しくないのだ。

もし比丘が、このような考えがあって在家の家族を訪ねるならどうでしょうか? 赤の他人の家だから、『托鉢を貰えるように』と期待することはあり得ないのだ。赤の他人の家だから、『沢山貰えるように』と期待することはあり得ないのだ。『…美味しいものを…』『…待たせずに…』『…丁寧に…』ということは何も期待をしないでただ訪ねる。そこで比丘が行った家々で、(上記のような対応を受けても、)何の不機嫌・不快も感じない、苦しみ悩みを心で味わうことはない。こんなふうな比丘は托鉢にでるに相応しいのだ。

 

以下解説:『ぞんざいではなく、丁寧に礼儀正しくお布施をしてくれますように』という項目がなぜ入っているか。当時のインドで托鉢はたいへんだった。ご利益目当てで誰でもお布施する人もいるし、断固拒否する人もいるし、バラモン教の人から罵倒・攻撃される場合もある。たとえくれても、さっさと出て行けと追い出される場合もある。

 

この経典はこれで終わりなんですけど……釈尊の弟子はだいたい出家でしたから、いろんなことがあります。道徳の範囲は広い。在家の方々に『乞食の正しいやり方』というノウハウはいらない。しかし出家は托鉢で生活するのが決まり。釈尊がカピラ城に行った時、堂々と托鉢行をして大騒ぎになった。『なんでこの人は他人からご飯を貰おうとしているんでしょうか?』と。そこで父の浄飯王が走ってきて『貴方はなんでこんなに釈迦族の家に迷惑をかけるのか? 我々の民族では他人から食い物をもらうのは恥ですよ』と。釈尊は、『あなたの民族(釈迦族)ではそうですか。しかし我々の民族(過去のブッダたちの歩んだ道)ではこれが正しい生き方ですよ。』と。それで浄飯王が負けて、翌日から釈尊に布施するようになった。この托鉢ということに道徳が入っている。托鉢の場合はその一日の一食しかもらってはいけない。余分にもらってはいけない。もし頼んでもいないのにもらってしまったら、他のお坊さんに分けないといけない。あまったら、すぐ処分しないといけない。明日にとっておいてはいけない。托鉢の決まりはとても厳しい。たくさんの道徳・しきたりが托鉢にもあるのです。

 

この経典で言っているポイントは何でしょうか。出家した比丘は、貰えても、貰えなくても、托鉢という行で生きないといけない。何一つ期待も希望も持たずに、何の執着も起こさず、托鉢する。その気持ちだけでも持って生きれば、すごく気持ちが楽になりますよ。

 

バラモン教でも、時々、托鉢に出る。現代ヒンドゥー教のバラモンは結婚式などの儀式で高額の料金を取る。バラモンは性格的になにもできてない。ただヴェーダ聖典をだらだら暗記しているだけ。欧米人はやたら有り難がるが、金になるなら宗教家ぶって何か教えたりするだけ。バラモンも時々、村を回ってあれこれ村人からもらったりする。作物や家畜、金品、時には子どもまで召使としてもらったりする。インド社会では、バラモン人が年に何回かでも托鉢に来たら、困ったなぁということになる。派手に贅沢なものを上げないといけない。

 

そういう習慣があったから、お釈迦さまは托鉢の道徳を説いたのです。(保存のきく)穀物を受けない、生肉などは受けない、土地・金品・財産などは受けない、動物などは受けない、人間(召使・奴隷)は受けない。結局、調理した食事だけしか受け取らない。薬も病気になってないと貰わない。そういう厳しい道徳を定めたのは、それとは違うバラモンの托鉢習慣があったから。

 

経典の続きでは、マハーカッサパ尊者こそ、そのような托鉢に相応しい比丘であると讃えています。『托鉢に出る時は、カッサパ尊者のように托鉢に相応しい人間になって出ていってください』とモデルケースとして示している。

 

モデルケースというのは大切な事で、ただ理想ばっかり話しても意味が無いんです。やらないし。理想はそうだけど、無理だよということになる。宗教ではよくある話。イスラム教ではさんざん悪いことしておいて、文句を言うと『本当のイスラム教とは素晴らしいもの、本当のイスラムはテロみたいなことはしない』という。それって、結局、誰もイスラムの教えを実行してないんだよということ。キリスト教もそう。現代の仏教も同じことです。お釈迦さまは弟子の中でモデルケースを取って、実際にやってますよ、貴方がたもこのようにやりなさいよと、教えたのです。

 

マハーカッサパ尊者はムチャ金持ちの出身でした。バラモンではトップの家柄だったのに、すべて捨てて出家した。夫婦とも在家生活にぜんぜん興味がなかった(奥さんも出家して聖者になった)。だから他の人々にも『私は家柄があるからちょっと……』などと、文句を言えないんです。

 

次の経典。5. Jiṇṇasuttaṃ 老い

 

釈尊王舎城の竹林精舎にいたときの話です。(解説:前の経典は祇園精舎因縁)釈尊が傍らに坐ったマハーカッサパ尊者にこのように語る。

 

釈尊:『あなたも、もうだいぶ歳でしょう。(解説:釈尊とカッサパ尊者はほぼ同い年)あなたには、この麻の糞掃衣はすごく重いでしょう。(解説:カッサパ尊者が出家した時に着ていたカーシー産の絹の衣をお釈迦さまの糞掃衣と交換した。それからずっと、カッサパ尊者は糞掃衣で生活した。)ですから、あなたは在家の人々のお布施の衣を貰ってください。(解説:これまで、釈尊の衣を貰って、出家のモデルケースとして厳しい生活をしていた。でも、仏教もだいぶ広まったことだし、お年でしょうし、釈尊も、もうそろそろカッサパ尊者の役割を解除してあげたいと思ったのです。)在家の方々の招待を受けてください。(解説:前日の残り物である托鉢食ではなく、作りたての食事を招待で受ける。それは当時の出家には特別なことだった。)私と一緒に生活してください。(解説:この言葉は、釈尊は誰にも云わないこと。お釈迦さまは、マハーカッサパ尊者が近くにいたらいいなぁ、という気持ちがあった。お釈迦さまの直々の願いだから、これは断れませんね……。しかしカッサパ尊者はすべて断るんです。この二人はすごいんです。仏教の歴史上、お釈迦さまの願いを断った人は他にいません。)

 

マハーカッサパ尊者:『お釈迦さま、私は長いあいだ森林行で森に暮らしていました。森の中に生活することが、とても良いことであると、束縛なく、心清らかにする修行であると、褒め称えてきました。」

 

以下解説:森林行とは、人々が住まない所に住まうこと。森でなくても、洞窟でも山の上でもいい。ただ、人々のいる集落ではない。何の束縛もなく、気兼ねなく生活できる。

 

仏教では、『生きることは根本的に悪』なんです。これは言ってはマズイんだから言っていないことです。生きることは尊いではなく、『生きることは苦である』というのは中道的な真理です。それは哲学。では倫理の立場から言えばどうでしょうか? それは『生きることは悪』ということになる。でもこれは言ってはマズイから仏教で言っていない。しかし丁寧に仏教を学ぶと、簡単にわかることです。生きること自体が、「真理としては苦であり、道徳としては悪」なんです。植物は根から水や養分を取って光合成で成長している。しかし生物は必ず他の生命を捕食しないと生きられない。カエルは蛇に食われるが、決してカエルは『私の人生のモットーは蛇に食われることだ』と思っていないんです。残酷です。しかしそのカエルも他の昆虫を食べている。昆虫はだったら、カエルの餌食になるために生まれたんですね。生物は誰も他の生物の餌食になるために生まれたわけじゃないんです。

 

いま、海では韓国や中国と争っています。排他的経済水域といって海に線を引いたりして……でも魚の立場から考えたらどうですかね? たまたま魚に生まれたから、日本の経済水域に生まれたら日本人の餌にならなきゃいけないんだよと。誰も、誰かの餌食になるために生まれたのではない。我々はそういうどうにもならないことをして生きている。社会の経済活動って何ですかね? 人の弱味を握ってるだけ。人が困ってる時に儲かるというのは道徳でしょうか?

 

生きるということは、精密に考えると悪以外の何でもないんです。(完全に)善的な生活できるかというと、不可能です。水だけです、飲めるのは。他のすべては生命との関係があります。植物であれ、動物であれ、食べられないようにといろいろ工夫します。工夫しても、……結局、食われます。(キリンと植物の攻防について)実を守るために必死ですが、それでも食べられる。仕合せで幸福に長生きしたってことは、それだけ残酷なことをしてきた、ということ。生きるということは、本来、悪なんです。そこは仏教では云わないんだけど、分かって欲しいんです、仏教は。言うことは、道徳的にはできないんです。生きることは悪、と言ったら、誰も生きていけなくなる。人を殺すことになる。それは極限の悪だから、決して言わない。しかし教えを通してわかってほしいこと。精密に教えを聞けば、そうだと分かる。だから、お釈迦さまの時代、説法を聴いた人は、その場ですぐに出家したんです。そこで人間の経済活動の世界とは全く別の出家サンガの世界を作ったんです。経済活動や政治活動に関わることは悪行為になる。托鉢で生活しなさいと。昨日の余り物が残っているならば、ちょっと貰います。その場合も「下さい」とは云わないんです。もらった場合も「ありがとうございます」とは云わない。微妙に道徳にふれないように気をつける。「幸せでありますように」とは言う。出家が「昨日、あなたお布施してくれましたね」とか言うと、またお布施しなくてはいけない、という微妙な気分が生まれる。そうすると、奥さんは翌日、余計に一合、コメを炊くことになる。だから、「ありがとう」とは絶対に言わない。「美味しかったです」と言ったら、喜んで腕を奮ってしまうでしょう。微妙にでも、自分のために他の生命が損なわれないようにと、気をつける。それは皆さん、決して気づかないところでしょう。大さじ一杯のご飯なら、もう死んでいる。誰かが食べたほうがいい。だったら、捨てて虫に食べさせるか、人間に食べさせるかと。虫はご飯たべなくても他に餌があるが、人間は御飯食べないと死んでしまう。だったら、お坊さんに上げましょう、ということになる。

 

そういうわけで、托鉢なんです。「貴方も堂々と生きているだろう」と言えない。長生きしてるんだから、そうとう悪してるだろう、と出家に対しては言えない。理想的な生き方というのは、人工的なシステムの中でしか成り立たない。だから出家サンガというのは人工的な組織なんです。それに繋げて、森林に生活することとは何なのか。村に住んだら、村人は出家のために庵を作ってあげないといけない。仏教ではそこまではOKにしている。しかし精密に悪を犯さない生き方をしようとしたら、森の中に身を隠して生きるしか無い。どこか雨に打たれないところに身を寄せる。マハーカッサパ尊者もどこかの洞窟に住んでいた。尊者の洞窟はピッパリーワナという名前で知られていた。森林生活というのは、仏教が説く道徳的な生き方。しかし実践しようとしたら、人工的なシステムの中でしかできない。しかしサンガの中でも大多数はとても実践できない。一部の人が自ら選んで森林行に入ったのです。マハーカッサパ尊者は、仏教の理想の生き方、お釈迦さまが直接は云わなかったけれど、理想とする生き方を、皆に分かるように実践したのです。

 

マハーカッサパ尊者:私は托鉢行のみで生活してきました。それこそが素晴らしい生き方(解説:微妙にでも生命に迷惑をかけない慈しみの生き方)だと賞賛してきました。糞掃衣(解説:捨てられた布を縫い合わせた衣)のみを着て生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

以下解説:衣を一着つくるために、どれだけ生物に迷惑をかけているでしょうか?絹の生糸を取るために、蚕の幼虫を生きたまま煮殺さないといけない。どれだけ生命が犠牲になるかと。しかし捨てられた絹の布を拾ったところで、微塵にも他の生命の迷惑にならない。だから、出家するときには『理想的な衣は糞掃衣である』と言う。仏教は見事に、生きることは悪であるというスタンスで、出家儀式を決めている。マハーカッサパ尊者は麻でできた糞掃衣を着ていた。麻はよく落ちている。貧しい人しか麻は着ないし、モノを入れる麻袋としてもよく使われていた。ボロボロになるとすぐ捨てられる。簡単に手に入るが、麻の生地は肌触りが最悪。

糞掃衣というのは、貧しい格好していると見せびらかすためではない。捨ててあれば絹でも使う。しかし捨てられたものをいましばらく使わせて貰います、ということ。それから、

 

マハーカッサパ尊者:私は三衣のみで生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

解説:戒律で定められた三衣【衣一セット】がボロボロになるまで使う。他の衣を決して受けない。ケチではなく、出来る限り無駄遣いしないようにする。マハーカッサパ尊者は模範的に、釈尊の説かれた道徳にぴったり合うように、行として実践した。

 

マハーカッサパ尊者:私は少欲で appiccho 生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

解説:少「欲」というと分かりづらいが、これはneeds需要・必要ということ。必要なものだけで生きる。必要性を外れたものを集めれば集めるほど、人生は残酷なものになるのです。

 

マハーカッサパ尊者:私は満足して santuṭṭho 生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

以下解説と経典を交えて記述:生き物にとって、満足できないことが苦しい。満足できないことで、残酷な生き方をするんです。もっと欲しい、もっと欲しいと。いくらあっても、精神的な安らぎを感じない。何かもらったら「ああ、よかった」と何で思わないんでしょうか?「私はついてるんだ」と。そういうふうに精神的に訓練すると、ものすごく幸せになるんです。心理学的に説明すると、生命がなぜ苦しんでいるかというと、満足できないことからなんです。飼っている動物にしても、何あげても満足しない、くれるならもっと食べるぞという態度。できるならもっと美味いものがないかと探す。どんな生命にもその病気がある。もっといいものないのかという。もっといいものないかと探している時点で、満足がないし、不幸せを感じているんです。

 

俗世間では、人間が満足しないから社会が発展しているという。満足してはいけないという。しかし、仏教では逆のことを言っている。発展すればするほど、残酷な社会になっていくんです。原子力発電は最たるものでしょう。世界中の誰も、廃棄物の処理をどうするか解決していない。満足しないという病気だから、ひどい事になっている。人類は病気が嵩じて、他の生命を殺しまくるどころか、人類そのものが自滅するところまで来ているんだから。では、それで幸せになったんですか?原発を開発することで。農業開発で。結局、幸せに放ってないでしょう。俗世間は、「生きることほど有難い事はない」というでしょう?有難い事だと誰か調べたんですかね?誰も調べてないし、証拠もない。あまりにも可笑しい。ただ欲が語っているだけ。「尊い命」も、「永遠の魂」も、自分が生きていきたい、なんとしても生きていきたい、という恐ろしい我欲が語っているだけ。まったく証拠がないことをダラダラ語っている。仏教は証拠に基づいて説明しているんです、満足しないという病気が恐ろしい病気です。ブッダが発見したことであって、他宗教には発見できない、儲かれば有難いと思っているんです。

 

修行完成のために命をつなぐ。そのために食べるものを得られれば、それが何であれ、それに満足する。そのような思考パターンを作らなければいけない。それを理想的な形でマハーカッサパ尊者が実践していた。雨風をしのぐためには、樹の下にいられれば充分、よかったよかったと満足する。俗世間では、ポジティブシンキングとかネガティブシンキングと言っているけど、あれは仏教的ではない。Santuṭṭhi(サントゥッティ)満足することが、仏教で言うポジティブシンキングなんです。自分が置かれた状況において、満足することが、本格的なポジティブシンキングなんです。俗世間のポジティブシンキングは、欲をかき回しなさい、ということ。あれは実際はネガティブシンキングなんです。

 

次のポイント。pavivitto ひとりで生活すること。誰かにお世話されるということは、世話している生命の自由が奪われるということでしょう。微妙にでも他の生命に迷惑をかけない。俗世間では社会的な生活をしているけれど、お互いにかなり迷惑を欠けているでしょう。楽だと思ってやっているけど、結局自分は食われているし、自分も相手を食っているんです。自分の環境が大きいほど、搾取や迷惑が増えるんです。大家族でいると、大人が子どもに罰を加えたり、殴ったりもする。精密論で生命に迷惑をかけないで生きようとしたら、ひとりで生活することになる。asaṃsaṭṭho コネクションを持たない。コネを持つことも、生命にとっては迷惑なんです。例えばマハーカッサパ尊者は偉大なる智慧者。しかし「王様に説法するならばぜひマハーカッサパ尊者に…」というようなコネは絶対に持たなかった。最後は、āraddhavīriyo ceva vīriyārambhassa ca vaṇṇavādī 『私は精進努力で生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。』仏教でいう精進努力とは、気づき(sati,サティ)の実践です。

この生き方は、お釈迦さまにさえ変えられません。そこでお釈迦さまは、『貴方はどのような利益を考えて、このような生き方をしているのですか?』と訊く。

 

マハーカッサパ尊者:利益は二つあります。1)私はこの生き方によって、現実的に心安らかに生活している。2)後輩(これから現れるすべての仏弟子)のことを心配して実践していますよ。これから出家する人々も私の生き方を知るならば、それに倣って修行しようと奮起するでしょう。そうすることで、後世の人々にも覚りの扉が開きますよ。

 

ですから、すごい方ですよ、マハーカッサパ尊者は。いまだにその生き方で、出家を脅しているんだから。……お釈迦さまは、マハーカッサパ尊者を賞賛します。『あなたは神々・人間、すべての生命の幸福を目指して生きているのは貴方ですよ』と。わかりますか? 社会から極端に離れて生きていたマハーカッサパ尊者こそが、一切生命の役に立っているんです。俗世間で言っていることと、本物の世界はずいぶん違うんです。

 

お釈迦さまは『それならカッサパよ、麻の衣を着なさい。糞掃衣を着なさい。森の中で生活しなさい』と、マハーカッサパ尊者の生き方を認めたのです。これで経典は終わりです。

 

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