『まんまんちゃん、あん。』が描いた日本仏教問題の最深部

寺よ、変われ (岩波新書)

寺よ、変われ (岩波新書)

高橋卓志『寺よ、変われ』を読んだ。著者は長野県松本市浅間温泉にある神宮寺(臨済宗妙心寺派)の住職。地域社会を巻き込みながら、多角的なアプローチで現代における新しい寺の姿を提示し続けている僧侶である。

日本の寺は、いまやに死にかけている。形骸化した葬儀・法事のあり方を改めるだけでなく、さまざまな「苦」を抱えて生きる人々を支える拠点となるべきではないか。「いのち」と向き合って幅広い社会活動や文化行事を重ね、地域の高齢者福祉の場づくりにも努めてきた僧侶が、その実践を語り、コンビニの倍、八万余もある寺の変革を訴える。(本の扉より)

上田紀行の『がんばれ仏教!asin:4140910046』でも大きく取り上げられてきた高橋師の三面六臂の取り組みは、もちろん本書でも詳しく紹介されている。一人の住職のふんばりで、地域社会の文化や福祉のあり方までガラリと変えてしまったその実践力には、すなおに恐れ入ってしまった。

仏教界は新しい出来事や現象に対し、つねに仏教用語を使わないと、あるいは仏教用語に置き換えないと理解が進まない。そして置き換えが行われた時点で、それらは解決したかのように思い込んでしまう困った癖がある。(47p)

千の風になって」ブームにうろたえる日本仏教界をくさしつつ述べたこの記述に見られるように、高橋師は日本仏教の弱みをよく理解している。その上で、空理空論や言い訳のための歴史談義に陥ることなく、自分がまず実践してきた寺院改革のみを述べて奮起を促がす姿勢は潔いものがある。誰もが高橋師のようにできるわけではない(そういう批判や非難には飽きるほど曝されてきたそうだ)にせよ、彼は「やればできた」ことだけを述べているのだ。


ちなみに文中では、高橋師の盟友ともゆうべき上田紀行と対立する、宮崎哲弥らしき*1「仏教原理主義者」の評論家から、あるシンポジウムで厳しく批判されたことへの反論も綴られているが、評論家とプロの仏教者のスタンスの差が垣間見えてちょっと面白かった。


だが、日本仏教の抱えるもっとも大きな問題の一つが、本書では語られずにいることは、指摘しておかなければならないだろう。

神宮寺は先代まで世襲はなく、私が初めて世襲し、実父のあとを継いだ。

本書の第3章「苦界放浪」の冒頭では、師僧から弟子へと法灯が伝えられてきた臨済宗寺院で、初めての世襲住職となった自身の苦悩に満ちた青春時代がつづられている。


「坊さんにはなりたくない」と真剣に思いつめていた著者がなぜ、寺を継ぐという選択をしなければならなかったのか。それは、彼が一人息子だったからである。しかし、一人息子であっても、家業を継がない例はいくらでもあるだろう。寺の一人息子だった著者は、なぜ、どうしても、次期住職として寺を継がなくてはならなければならなかったのだろうか?


その理由の一つに、結婚した住職が子孫を作り、実子に寺を継がせないと、住職の妻をはじめとした「寺族(住職の家族)」は寺から放逐されて路頭に迷う羽目になりかねない、ということがあげられる。この、仏教界の事情を知らないものには驚愕の事実は、最近、蝉丸P師が「僧職系男子」を狙う不埒な婦女子を一喝した?ブログエントリを通じてネット界隈で広く知られるようになったばかり。

基本的に寺の嫁さんってのが
重労働+世間体+気苦労と
JSKの三拍子なのは言わずもがなですが


何が恐ろしいかと言えば
住居・老後の保証の無い世界でして
住職が先に死んだら跡継ぎが居ない限り
寺から追い出される恐怖がつきまといます


・それが故に必至に子供を跡継ぎにしようとする
・子供としては良い迷惑
・さりとて両親が老いて放り出されるのも辛い
・嫌々ながら坊主になる
・本人も檀家も涙目

宗派や地域によって差はあっても、基本的に寺は「法人」なのである。住職の私物ではない。住職はその法人の規定に基づいて選出される役職に過ぎない。いくら寺の境内に住職とその家族の住居があるといっても、実質的に寺を切り盛りしているといっても、それは普通の家庭とは違う。「寺庭」と呼ばれる寺の女性たちの地位は不安定なままであり、ここ十数年来、伝統教団では、この寺庭婦人方の処遇が大きな問題となっているのだ。


高橋師の個人的なことはわからないが、同じような立場におかれたお寺の息子たち(特に修行を重視する建前が残る禅宗寺院の子息)にとって、住職の実子である自分が寺を継がないことで、自分の家族を路頭に迷わせる結果に繋がりなりかねないという現実が、大きなプレッシャーとなってのしかかってきたことは想像に難くない。


『寺よ、変われ』では、自身が世襲住職を引き受けるまでの個人的な葛藤は書かれているものの、その背景にある寺庭婦人の問題、僧侶が自ら破戒することを前提としてしか成り立たない、仏教教義上はまったく正当化ができない住職の世襲というあり方から、日本仏教が自縄自縛のように離れられなくなっている原因について、一切触れられていない。


おそらく高橋師は、この問題について、まだ公に提示できるだけの答えを持っていないからだろう。(高橋師は禅僧としての自己の修行がまったく不本意なものでしかなかったことを告白しているし、本書を読む限り、弟子を取っている様子もない。寺の後継者問題について考えるのはまだ先、ということか……。)


ここまで頑張っている高橋師が、言及することすらできない大問題に、ましてや部外者が適切な答えを出すことなどできまい。しかし、日本の伝統仏教寺院に関わる人々が抱える苦悩をいくばくかでも理解して、分かち合うことは出来るかもしれない。そのためにうってつけのテキストが、いやマンガがある。

まんまんちゃん、あん。 第1巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第1巻 (バーズコミックス)

サトウナンキ&きづき あきら『まんまんちゃん、あん。』 (バーズコミックス 全3巻)である。これまた蝉丸P師の上述記事で知った作品だが、山梨県の禅寺の副住職に嫁ぎながらすぐに伴侶を亡くした少女「めぐり」を主人公に、その寺に関わる3人の若い僧侶たち、そして寺庭婦人である姑や檀家の人々などのそれぞれの思いが交差しながら、みんな悲しくなっちゃうさまが生々しく描かれる中篇マンガである。

まんまんちゃん、あん。 第2巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第2巻 (バーズコミックス)

全3巻なので、だまされたと思って読んでみてほしい。ロリ顔巨乳の「めぐり」のキャラなしには、あまりに重すぎるストーリーなのだが……。

まんまんちゃん、あん。 第3巻 (バーズコミックス)

まんまんちゃん、あん。 第3巻 (バーズコミックス)

日本仏教問題の最深部を短い時間で理解したいと思ったら、蝉丸P師の上記エントリと『まんまんちゃん、あん。』を読めばよい。で、解決策は……当事者が何とか頑張って見つけるだろう。熱心な檀家でもない外野の人々は、ただ七転八倒する彼らへの人間的共感だけは失わなければいい。だから、『寺よ、変われ』も『がんばれ仏教!』も本当は、われわれにとってはどうでもいい本なのだ。唯一、読むべきなのは、『まんまんちゃん、あん。』である。


僕はこないだ『まんまんちゃん、あん。』と、岩本ナオ町でうわさの天狗の子』を読んで、日本マンガはまだまだ、本当にすごいなぁ、とつくづく思った(後者については、またそのうち、滔々と語ります、きっと)。それだけです。

町でうわさの天狗の子 1 (フラワーコミックスアルファ)

町でうわさの天狗の子 1 (フラワーコミックスアルファ)


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〜生きとし生けるものに悟りの光が現れますように〜

*1:まったくの事実誤認でした。お詫びとともに謹んで訂正させていただきます。