2018年第三回「ひじる仏教書大賞」を発表――『朝鮮思想全史』『神道・儒教・仏教――江戸思想史のなかの三教』がダブル受賞!

年の瀬となってまいりましたが、今年も「ひじる仏教書大賞」を発表したいと思います。賞と名付けているからには、自分が直接かかわった本を選んではいけないという倫理観で臨んだのですが、今年はとにかくスマナサーラ長老の『スッタニパータ 第五章「彼岸道品」』シリーズを刊行できたことでお腹いっぱいになっちゃった感じはありますね。

スッタニパータ 第五章「彼岸道品」

スッタニパータ 第五章「彼岸道品」

 

Twitterでエモいこと書いてしまいました。

ホントに良い本なので、ぜひ読んでください。で、受賞作ですが、2作品です。まずは小倉紀蔵『朝鮮思想全史』ちくま新書

朝鮮思想全史 (ちくま新書)

朝鮮思想全史 (ちくま新書)

 

 読みどころについては、Twitterにメモったのでどうぞ

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それから森和也『神道儒教・仏教──江戸思想史のなかの三教』ちくま新書

神道・儒教・仏教 (ちくま新書)

神道・儒教・仏教 (ちくま新書)

 

こちらも読みどころをTwitterでメモりました。

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ちくま新書レーベルから2作品が受賞ですね。副賞とか特にありませんけど、おめでとうございます。(^^♪

仏教書大賞といいつつ、仏教「も」扱っている本を選んだわけですが気にしないでください。2タイトルとも、仏教のみに焦点を絞った書籍からは得られない豊富な知見を仏教書好きに与えてくれますので。東アジア諸国の仏教との相互関係、それと近世仏教史(日本の江戸時代)の見直し掘り起こし。この二つの視座(重なり合うところも多い)でもって日本仏教について考察していくことが、「近代仏教史ブーム」以降の仏教研究を豊かに耕すため必須になってくると思いますね、はい。

後者の近世仏教史については、早世された西村玲さんの遺稿集『近世仏教論』法蔵館も今年、刊行されました。ほんとはこの本に大賞を差し上げたかったのですが、西村さんのこと個人的にファンすぎて胸が詰まるのでやめました。『神道儒教・仏教』と併せて読めば、近世仏教という領域がいかに刺激的で豊饒な沃野かということが理解できてワクワクしてくると思います。

近世仏教論

近世仏教論

 

ちなみに、ちくま新書からは他にも仏教関連の面白いタイトルが出ていましたね。『仏教論争――「縁起」から本質を問う』は、宮崎哲弥さんが座談以外の仏教書単著に挑んだことで話題になりました。

仏教論争 (ちくま新書)

仏教論争 (ちくま新書)

 

読書メモはこちら。

 ウェブサンガに藤本晃さんの書評が出てて、たいへん勉強になるので併せて読んで欲しいです。

あと、さっきざっと読んだばかりだけど、吉村均『チベット仏教入門』も非常に良質な入門書だと思いました。

チベット仏教入門 (ちくま新書)

チベット仏教入門 (ちくま新書)

 

近代仏教学批判という文脈では、藤本晃さんの問題意識と(チベット系とテーラワーダ系という宗派の違いはあれども)共通していますね。前著『空海に学ぶ仏教入門 (ちくま新書)』を読んでいても思ったんですが、吉村均さんはたとえ話が巧みで的確なんですね。きちんと行に裏付けられた仏教理解であることの証左だと、個人的には思っています。

話が前後しますが、藤本晃さんの『部派分裂の真実――日本仏教は仏教なのか?3』では、佐々木閑さんによる『ごまかさない仏教』での名指し批判に名指しで反論しており、論争ラヴァ―のわいちゃん驚喜でございました。ぜひ立ち消えせずに議論が深まりますように。

部派分裂の真実 (日本仏教は仏教なのか? 第三巻)

部派分裂の真実 (日本仏教は仏教なのか? 第三巻)

 

 翻訳書では、サンガからリチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄 訳)『ブッダが考えたこと――プロセスとしての自己と世界』が刊行されたことにまたまた驚喜。

ブッダが考えたこと ―プロセスとしての自己と世界―

ブッダが考えたこと ―プロセスとしての自己と世界―

 

ゴンブリッチさん、わりと寸止めな感じの書きっぷりなので、一読してすっきりできるカジュアルさは皆無です。でも、手元に置いてちょいちょい目を通すことで触発されることは多いはず。サンガジャパン最新号(31号)に載った拙稿「仏教とジレンマ」でもさっそく引用させてもらいました。

倫理――理性と信仰 (サンガジャパンVol.31)

倫理――理性と信仰 (サンガジャパンVol.31)

 

サンガからはスリランカにおける仏教哲学の泰斗『K. N. ジャヤティラカ博士論文集 第1巻――仏教社会哲学の様相/仏教観からの倫理』も出ましたね。

K. N. ジャヤティラカ博士論文集 第1巻 (仏教社会哲学の様相/仏教観からの倫理)

K. N. ジャヤティラカ博士論文集 第1巻 (仏教社会哲学の様相/仏教観からの倫理)

 

正直、これだけ読んでもなんだかよくわからないのですが、ジャヤティラカ博士がアーノルド・トインビーの仏教理解に反論したやりとりはその後の顛末がどうなったか気になるところです。

翻訳を担当された川本佳苗さんのウェブサンガ記事が超面白いのでおススメです。

川本さんはミャンマー留学中にセヤレー・スナンダとして出家修行されていたそうです。そのミャンマーの宗教省が刊行した『テーラワーダ仏教ハンドブック――ブッダの教えの基礎レベル』も今年、サンガから出ましたね。文字通り教科書的なテーラワーダ仏教のテキストとして、勉強になる内容もけっこう載ってます。

テーラワーダ仏教ハンドブック (ブッダの教えの基礎レベル)

テーラワーダ仏教ハンドブック (ブッダの教えの基礎レベル)

 

そんなところでしょうか? 毎年恒例の「ひじる仏教書大賞」記事でした。あとは年内に、今年のお仕事回顧的な記事を挙げるかもしれません。

あ、あとね。仏教書という枠には入らないけどリベラルアーツすげぇ!フェミニズムすげぇ!と思って目から鱗落ちまくったのは堀越英美『不道徳お母さん講座――私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』河出書房新社ですね。

同書の第三章で検証される、現代国語教育における「ありのままは本当にありのままか」問題は、実は『神道儒教・仏教』で詳述された本居宣長の古典研究の誤読(あるいは先鋭的解釈)によりもたらされた日本的「心情のファシズム」が現代も生き続けている例だったりするわけです。

終わらなくなってきたところで、終わります。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

馬場紀寿氏、『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書における「布施」トンデモ語源説を撤回

去る9月13日のブログ記事にて、

naagita.hatenablog.com

馬場紀寿先生、ダーナの訳語である布施の「布」を「(衣の)布」のことだと断言してる。これ誤解じゃないのかな?

と疑問を呈したTwitter書き込みを引用しました。

「布施」の件について辞書類を確認しましたが、「布(ぬの)をほどこす」という解釈は間違いで、「しき・ほどこす」が正しいようです。布施(ふし)は『莊子』など先秦時代(仏教伝来以前)漢籍でも使われて、後にダーナの訳語に用いられました。画像は、岩波仏教辞典、字通、佛教語大辞典の該当箇所。 pic.twitter.com/E7D5kVPEle

— nāgita #antifa (@naagita) August 24, 2018

この件、御本人にも直接メールしたものの返信がなく(その後、驚くようなリアクションにも遭いましたが、関係者にご迷惑がかかるので墓場までもっていきます)このまま黙殺する方針なのかな?と憂慮していたのですが、岩波新書編集部インタビュー「B面の岩波新書」にて、該当箇所を訂正(全削除)する旨の表明がありました。……さすが超一流出版社の岩波書店ともなると、幻冬舎とは違いますね。

www.iwanamishinsho80.com

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』本文の訂正】この場を借りて、校正で直しきれなかった誤記誤植を、お詫びとともに訂正させていただきます。
 p.6, l.3. brāhmana  ⇒ (正) brāhmaṇa
p.47図8 ブッダの出家 ⇒ (正) ゴータマの出家
p.113, ll.5–7. 「布施」と漢訳されたのは、 ⇒ (正) 削除
p.198, l.12. 英和 ⇒ (正) 英知
巻末p.2経典番号97. Dhañjānisutta  ⇒ (正) Dhanañjānisutta
著者の間違いではなく、編集者による校正ミスの訂正という形を取っていますが、本文に記載されていた「布施」語源に関する馬場氏の以下の解釈は全削除ということです。

「布施」と漢訳されたのは、出家者に衣の「布」を「施」すことが主要な贈与のひとつだったからである。

繰り返しますが、布施の「布」は布教や流布の「布」であって、「布(ぬの)をほどこす」という解釈は間違いです。正しくは「しき・ほどこす」という意味になります。布施(ふし)の語は『莊子』など先秦時代(仏教伝来以前)漢籍でも使われて、後にダーナdāna)の訳語に用いられました。

残念ながら『初期仏教』はまだ増刷されていないようで、書店には謬説を断言してるバージョンが出回っていますが、当該の岩波書店記事やこちらのブログ記事を読んだ方だけでも、誤解から解放されてほしいと思います。

(まぁ、手元にある漢和辞典を引けばいいだけの話なんですが……)

初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)

初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

インタビュー連載『ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味』完結

佼成出版社ウェブマガジン『ダーナネット』にブッダの瞑想法をテーマにしたインタビュー連載が載りました。4週連続で5回更新。誰かをインタビュー取材する仕事はけっこうやってきましたが、自分がされるのは初めてだったので、とても勉強になりました。

ライターの方は仏教に造詣が深く、二日にわたってのとりとめない話をよくまとめて下さいました。テーラワーダ仏教の瞑想入門としては、けっこう役に立つ内容に仕上がっていると思います。以下、リンクを張っておきます。未読の方はぜひどうぞ。

 

1.ヴィパッサナーと「気づき(sati)」について

www.dananet.jp

 

2.瞑想についての疑問あれこれ

www.dananet.jp

 

3.前編 瞑想で達する境地(主に預流果)について

www.dananet.jp

 

3後編 苦と苦の原因(渇愛)について

www.dananet.jp

 

4.その他の瞑想――「慈悲の瞑想」を中心に

www.dananet.jp

 

ちなみに、デブ隠しにしてはかっこよすぎる黒Tシャツは鍋横の「麵屋どうげんぼうず」グッズです。

dgbz.stores.jp

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

仏教の基本的概念”saṅkhāra(行)”の多義性と解釈をめぐるプラユキ・ナラテボー師との論争――というか通仏教的な定説にもとづく誤謬の指摘

プラユキ・ナラテボー師というお坊さんとTwitterで仏教の基本的概念である”saṅkhāra(行)”の解釈をめぐって論争(とまでは言えるかわかりませんが論争的なやり取り)をしました。

実際のところ、論争になることは無くて、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦”における「行」を「無明に基づく心の働き」とするプラユキ師の解釈が間違っていることは確定的なんですけど、私にはよく理解できないロジックと、「いいね!」を100以上もらってるから、というこれまた全く意味が分からない理由で、師が自説を撤回することはありませんでした。

プラユキ師は「ツイッターという場で対機説法をする際に」ということも強調されていましたので、ちょっと筆が滑っただけで、「いいね!」100以上ついたTweetをいまさら引っ込めるのも立場的に苦しいのかな?と思ったのですが……たまたま、ほんとうにたまたま閲覧した「ダーナnet」のインタビューでも、師は同じ「間違い」発言をされていたんですよね。

www.dananet.jp

日本では一般に「一切皆苦」という言葉が流通し、「『人生はすべて苦である』と悟るのが仏教である」などと解釈されています。でもそれってなんか救いようが無さすぎる感じですし、仏教を学ぶモチベーションにもあまり繋がらないですよね。ところでブッダも「生きることは苦しみだよ」ということを仰しゃりたかったのでしょうか?

ブッタは実際そのようには説かれていません。原文は「サペー(一切)・サンカーラ(行)・ドゥッカ(苦)」ですから「一切行苦」、無明むみょうすなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動はすべて苦しみにつながると仰しゃったのです。そして、こうした苦しみをめつする(克服する、あるいは超克する)道もある。すなわち、無明の闇を晴らしていく方法を説かれ、そうした道を歩めば、われわれ誰でもが苦しみを滅し尽くせると仰しゃったわけです。

もちろん、引用したセンテンスがすべて間違いということではありませんが、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦”における「行」の解釈は明確に間違っています。

十二支縁起の「行」を「無明すなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動」とするのは、わかりやすい解説だと思います。釈尊ご自身が分別経(相応部因縁篇)で「行」の意味を「身行・口行・意行」と語釈されていますから。

しかし、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」は、広く「現象・作られたもの・形成するもの」を意味します。「無明すなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動」に限りません。

五蘊や十二支縁起の「行」で表している概念は、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」に包含される意味内容の一部に過ぎないのです。

ちなみに、筆者が東洋大学の印度哲学科「仏教概論」でテキストとして使った水野弘元『仏教要語の基礎知識』春秋社でも、saṅkhāra(行)の概念内容の広狭に注意するよう書かれています。

仏教要語の基礎知識

仏教要語の基礎知識

 

諸行無常」の行は最広義のものであり、五蘊の行はそれに次ぎ、十二縁起における行は最狭義のものである。(119p~)

関連するページ画像を貼っておきましょう。

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もちろん、プラユキ師のインタビュー(説法)は全体として有意義な内容だと思いますが、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」に関する説明は間違っているのでは? ということです。念のため。

 

仏教の正しい内容が長く伝わりますように、という願いを込めて、このエントリーを投稿します。

 

追伸:仏教用語の多義性ということでいえば、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「苦」を「苦しみ」と説明することの問題点にも触れないといけないんですけど、それをやりだすとキリがないので、今回はやめときました。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

大竹晋『大乗非仏説をこえて――大乗仏教は何のためにあるのか』国書刊行会を読んで。大乗仏教という「甘えん坊の放蕩息子」論

表題の本、献本いただき拝読しました。

大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか

大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか

 

基本的に良著と思います。情緒に流れず、しっかりした論拠を持って、仏教に惹かれる一般人に主張を伝えようという心意気が伝わってきます(kindle版を同時に出してるのも偉い!)。

まぁ、そうだよね、と思いつつ、湧き上がる違和感も。 「大乗仏教は仏教が仏教を超えてゆくためにある」という啖呵はなかなか威勢がいいんですけど昭和初期の戦時教学、そして戦後のオウム真理教事件(あれらはまさに、大乗仏教を標榜する人々が「仏教が仏教を超え」ることを決断して、利他のための大量殺人を推奨した事例ですからね……)を経験した日本の仏教研究者が口にするのはあまりにもナイーブという気がしました。

さらに付け加えるならば、利他のためにと仏教を乗り越えて天皇崇拝を宣揚し、見事に墜落した日本の大乗仏教に手を差し伸べて、再び仏教世界に復帰させたのはスリランカをはじめ上座仏教圏を中心としたアジアの仏教者たちだったわけです。 そういう近代史には、大竹さん興味ないのかな?

大乗仏教は、歴史的釈尊という着地点があるから成り立つ曲芸飛行みたいなものなので、自立を目指しちゃうと肥溜めに真っ逆さまじゃないの? というのが部外者の感想です。 威勢のいいこと言って、困ったらすぐ実家に泣きつく「甘えん坊の放蕩息子」くらいにしといた方がいいんじゃないでしょうか?

あと細かいところですが、「新来の上座部仏教団体」という呼び名でやたら日本テーラワーダ仏教協会を意識した記述が多くて、「そこまで対抗意識燃やさんでも」と苦笑してしまいました。

加えて随所に見られる、大乗仏教は歴史的ブッダと切れてる教えだけど、それでも大乗仏教のほうが人間のありかたとして尊い!という尊い判定」が一方的すぎて、オイオイと。 主観に振り切れ過ぎでしょ。

とまぁ、いろいろ腐しましたが、それでも仏教読み物としてはかなり面白い部類に入ると思います。 大竹晋さんには今後も健筆をふるって欲しいと願っているので、初期仏教クラスタのみなさんも、ぜひ購読して驚いたり闘志を燃やしたりすることをオススメします。

大竹晋さんと言えば、大乗起信論の出自をめぐる論争に決着をつけたことで名が轟いていますけど、以下の既刊も類書のないユニークな内容でおススメです。

宗祖に訊く 日本仏教十三宗・教えの違い総わかり

宗祖に訊く 日本仏教十三宗・教えの違い総わかり

 

それから、『大乗非仏説をこえて』に出てくる日本大乗仏教の「利他のための破戒」ロジックについて、龍谷大学の大谷由香先生とTwitterでやりとりさせていただきました。この方面の研究進展も気になりますね。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

『日本宗教史のキーワード――近代主義を超えて』(大谷栄一、菊地暁、永岡崇 編著)慶應義塾大学出版会に「テーラワーダ仏教」を寄稿

お仕事の報告です。

 書き出しはこんな感じです。

テーラワーダ仏教

佐藤哲朗 

布教伝道の現場から

 近現代の日本で断続的に試みられてきたテーラワーダ仏教(上座仏教)受容の歴史は井上ウィマラ[井上 二〇一六]、藤本晃[藤本 二〇一六]、青野貴芳[青野 二〇一四]に詳しい。本稿では、布教伝道にたずさわる当事者の視点から所見を述べたい。学生や研究者の皆さんが考えるヒントにしてもらえれば幸いである。筆者は二〇〇三年の春から宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会(一九九四年設立。以下、協会)に勤務し、主として機関誌や書籍の編集、インターネットを通じた布教伝道に従事してきた。国内で一時出家も体験した。日本におけるテーラワーダ仏教の実勢については、統計がなく確かなことは言えない。協会に属する寺院は国内三ヶ寺のみだが、他団体やテーラワーダ仏教圏の出身者が建立した寺院を併せると二〇ヶ寺は下らないだろう。日本人比丘はまだ少ないが、出家儀式を行う戒壇(sīmā)も国内に複数設定された。宗教的なインフラ整備は、ここ十数年でかなり進んでいる。協会の会員(月刊機関誌『パティパダー(Paipadā)』定期購読者)は全国で二〇〇〇名程だが、ほぼ全員が日本人或いは日本語ネイティブである。会員には伝統仏教諸宗派の僧侶や仏教系新宗教の教師職、また非仏教徒も含まれる。一方で、入会はしないものの協会行事の常連だったり、協会宛に定期的に布施したりする例も少なくない。会員自主活動である「ダンマサークル」も全国で盛んだが、こちらも非会員の参加を歓迎している。ウェーサーカ祭やカティナ衣法要といった大きな法事には、スリランカミャンマー、ネパール(仏教徒のネワー民族)出身の人々も家族連れで参集する。 

出版メディアにおける存在感

 協会周辺に限っても、かように曖昧な日本のテーラワーダ仏教だが、出版メディアにおける「存在感」だけは確固たるものだ。協会の指導者にあたるアルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasāra,1945-)の著作は、二七万部以上を頒布した『怒らないこと』(二〇〇六年)はじめ商業出版だけで二〇〇タイトルを超える。他にもタイで出家した日本人比丘プラユキ・ナラテボー、ミャンマーで出家し後に還俗した井上ウィマラ(高野山大学教授)、西澤卓美、浄土真宗寺院の出身ながらテーラワーダ仏教に強い影響を受けた小池龍之介、藤本晃など、日本の出版界にはテーラワーダ系の仏教書ジャンルが確立している。マハーシ・サヤドー(Mahāsi Sayādaw, 1904-1982)、アーチャン・チャー(Ajahn Chah, 1918- 1992)、ポー・オー・パユットー(Prayudh Payutto,1938-)、アーチャン・ブラーム(Ajahn Brahm,1951-)、ウ・ジョーティカ(Sayadaw U Jotika,1947-)といった海外僧侶の著作も多数翻訳出版されている。電子書籍やインターネットでの発信を含めれば情報量はさらに増える。協会の会員に限らず、一般の日本人とテーラワーダ仏教の接点は概ね書籍やネットであり、行事に参加する場合もいわゆる「法事」ではなく、瞑想会や法話会に個人で参加するケースがほとんどだ。たまさか会員になっても布教や献金の義務はない。個々の熱心度に違いはあれども、強固な「しがらみ」を形作るコミュニティ宗教の要素は希薄である。さらに言えば、会員であってもテーラワーダなる特定宗派に帰属意識を持つ人がどれだけいるか疑問だ。むしろスマナサーラの言葉を通じて、「宗派以前のブッダの教え」に触れていると感じる人が多いかも知れない。ブッダ本来の教えとは「純粋な科学」であり、テーラワーダであれ大乗であれ、そこに付着した宗教色・信仰・民族文化は「汚れ」に過ぎないというのが、スマナサーラの決まり文句である。 

原始仏教」というドメイン戦略

 矢野秀武[矢野 二〇一二]によれば、現代日本テーラワーダ仏教への共通了解は、大乗仏教より劣る小乗仏教ブッダ時代の「原始仏教」を引き継ぐ仏教、パーリ語聖典に見られる思想としての上座仏教(宗派の教え)、各地域別のエスニック上座仏教(スリランカ仏教、タイ仏教など)、といったイメージに分断されている。これらの項目の中で、日本人の「需要」が大きかったのは「原始仏教」の領域であった。その背景として、西洋由来の近代仏教学による古代インド仏教研究、パーリ仏典を普及させた中村元(一九一二~一九九九)の業績などが挙げられている。日本の近代化過程で学術面に限らず信仰面でも一定の需要が生み出されたにも関わらず、「原始仏教」を基盤とした寺院や僧侶はほとんど(まったく)存在せず、信仰面の需要は満たされない状況が続いてきた。「スマナサーラ長老を中心とする日本テーラワーダ仏教協会ドメイン戦略」がこのポイントに即していたとする矢野の分析は、協会運営に関わった立場からも頷ける。ただしスマナサーラは、未発達な仏教という意味を含む「原始仏教(Primitive Buddhism)」を避けて、より価値中立的な「初期仏教(Early Buddhism)」を用いている。また、「ブッダは信仰を否定した」という言説で「原始仏教」への信仰面の需要を逆説的に掬い取り、戒や瞑想といった「仏道の実践」へと人々を導いている。テーラワーダ仏教への共通了解のうち、「大乗仏教より劣る小乗仏教」という偏見は強固だった。歴史的に大乗仏教が栄えた日本で、「小乗仏教」とは実体のない批判対象であった。それが近代化によって現実のテーラワーダ仏教と同一視され、「劣った仏教を奉じる遅れたアジア」なる差別意識とともに、アカデミズムや公教育の場において無批判に再話され続けたのである。近年この語が廃れはじめたとすれば、アジア諸国出身者ではなく日本人が「当事者」として批判の声を上げ始めたからだろう[佐藤 二〇一三]。その前史として青木保『タイの僧院にて』(一九七六年)を嚆矢とする文化相対主義の眼差しが、テーラワーダ仏教へのフラットな理解を促したことも指摘しておきたい。話を戻せば、釈迦牟尼ブッダに直結する「原始仏教」イメージは、近現代の日本で「あるべき仏教」の理想形として形作られていった。昭和後期に伸長した仏教系新宗教が教団名に原始経典を意味する「阿含」を冠したり、パーリ語の礼拝文を取り入れたりしたように、そのイメージを実体化させんとする需要または欲求はつねに存在していたのだ。「初期仏教」の合理性と科学性を強調するスマナサーラの言説と「正念」のエッセンスを伝える瞑想指導(後述)は、一連のオウム真理教事件(一九八八~一九九五年)が決定づけた宗教忌避の風潮とも相俟って、テーラワーダ仏教を「脱宗教的な実践体系」として日本社会に受容させたのではないか。

日本仏教にもたらした変容

近代仏教史の範疇では、テーラワーダ仏教の日本移植は挫折の連続だった。釈興然(高野山真言宗、一八四九~一九二四)は、一八九〇年(明治二三)に留学先のスリランカで比丘となり、帰国後は外護者を得て日本比丘サンガ設立を期したものの失敗に終わった。さらに戦後の一九五〇年代、日本曹洞宗の青年僧侶たちがミャンマーのマハーシ・サヤドーのもとに参じヴィパッサナー(vipassanā,観)瞑想――教学上の説明は措くが、次に触れる「気づき」の実践と同義――を学んでいる。現代の修行者からすれば羨ましい話だが、本人たちは苦痛だったようで、帰国後にその学びが注目されることもなかった[小島 二〇一六]。当時、日本ではテーラワーダ仏教は「戒律仏教」と見なされており、瞑想実践(bhāvanā)への関心や需要も皆無に等しかったのである。

それから数十年を経て、日本人のテーラワーダ仏教観は「戒律仏教」から「瞑想仏教」へとがらりと転換した。そしてテーラワーダ仏教の瞑想メソッドは、日本仏教のあり方にも変容をもたらしている。すでに人口に膾炙した「マインドフルネス(mindfulness)」は、仏教用語「念(sati,smṛti)」の英訳である。そして、このマインドフルネス及びアウェアネス(awareness)から重訳された「気づき」なる日常語が、日本仏教における伝統的な「念」解釈を更新したのだ。従来、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつき難い単語に訳されていた。そこにテーラワーダ仏教のサティ概念が(英語経由で)移入されたことで、仏道の要諦たる「正念」の実践が一気に普及したのである。

二一世紀になって、宗主国アメリカからヴィッパサナーをアレンジした「マインドフルネス瞑想」が本格導入されると、この傾向に拍車がかかった。テーラワーダ仏教色が強い「ヴィパッサナー」の受容には抵抗していた伝統仏教界も、アメリカ流の「マインドフルネス」ならば容易に受け入れた(出世間を志向しない点を除けば、内容はほぼ同じなのだが)。現在では宗派を超えて伝統仏教の僧侶が「マインドフルネスコーチ」の肩書を掲げて活動するまでになっている。

イメージと実像の乖離

開国以来の紆余曲折を経て、「原始仏教」志向の受け皿となることで橋頭堡を築いたテーラワーダ仏教は、日本人が国内でアクセスできる仏教の一つとして定着したと言えるだろう。その一方、「原始仏教(初期仏教)」あるいは「瞑想」をドメインとした伝道のあり方が、テーラワーダ仏教の実像と乖離を生んでいる側面もある。例えば、テーラワーダ=瞑想仏教というイメージを抱いて「本場」の仏教に触れると、大半の仏教徒が「瞑想」に関心を持たず、祭礼や布施儀式に熱心な姿を目撃して困惑することになる。これは、アメリカやヨーロッパで禅堂に通い、いざ「仏教国日本」を訪ねてギャップに驚く欧米仏教徒の感覚に近いかもしれない。さらに近年は、スリランカミャンマー・タイで頻発する仏教と他宗教の「宗教対立」、アシン・ウィラトゥ(Ashin Wirathu,1968-)らナショナリスト僧侶によるヘイトスピーチなどが頻繁に報じられ、テーラワーダ仏教への日本人の好意的印象に不穏な影を落としている。「脱宗教的な実践体系」だったはずの教えが、極めて偏狭な宗教の「毒」をふり撒くさまを見せられれば、興醒めも仕方ない話だろう。かくして「テーラワーダ仏教のリアル」と対決を迫られる日本のテーラワーダ仏教原始仏教ドメイン戦略部門)。布教伝道の波頭から見える光景は、このようなものだ。

 

【参考文献】

  • 井上ウィマラ 二〇一六「欧米・日本の上座仏教」、パーリ学仏教文化学会 上座仏教事典編集委員会編 二〇一六『上座仏教事典』めこん
  • 小島敬裕 二〇一六「ミャンマー上座仏教と日本人――戦前から戦後にかけての交流と断絶」、藤本晃 二〇一六「テーラワーダは三度、海を渡る――日本の土壌に比丘サンガは根付くか」大澤広嗣編『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』勉誠出版
  • 青野貴芳 二〇一四「日本のヴィパッサナー瞑想史」蓑輪顕量監修『別冊サンガジャパン① 実践!仏教瞑想ガイドブック』サンガ
  • 矢野秀武 二〇一二「タイ上座仏教の日本布教――タンマガーイ寺院についての経営戦略分析」中牧弘允、ウェンディ・スミス編『グローバル化するアジア系宗教 経営とマーケティング東方出版
  • 佐藤哲朗 二〇一三『日本「再仏教化」宣言!』サンガ

あ……全文載せちゃった。原稿料貰ってるわけでもない(一冊献本いただきました!)ので、別にいいでしょ。他の先生のコラムも「いろいろあるねぇ」という感じで面白いので、日本の宗教史に興味ある方はぜひお買い求めください。

日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて

日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて

 

 ~生きとし生けるが幸せでありますように~

 

馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書1735について。「布施」の語釈と、アレクサンドロス大王のインド遠征軍に同行したジャイナ教行者の話など

同じこといろんな場所に書く気力がない、ということでTwitterFacebookにかまけてブログはさぼってますが、いくつか残しておきたいことが出てきたので書きます。

以下、馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書1735についてのTwitterメモ。「布施」の語釈と、アレクサンドロス大王のインド遠征軍に同行したジャイナ教行者の話など。

 

まとめ。

  • 布施とは断じて「布を施す」という意味ではありません!
  • アレキサンドロス大王と友達になったジャイナ教行者カラノスについてもっと知りたい!
アレクサンドロス大王東征記〈下〉―付・インド誌 (岩波文庫)

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~