馬場紀寿氏、『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書における「布施」トンデモ語源説を撤回

去る9月13日のブログ記事にて、

naagita.hatenablog.com

馬場紀寿先生、ダーナの訳語である布施の「布」を「(衣の)布」のことだと断言してる。これ誤解じゃないのかな?

と疑問を呈したTwitter書き込みを引用しました。

「布施」の件について辞書類を確認しましたが、「布(ぬの)をほどこす」という解釈は間違いで、「しき・ほどこす」が正しいようです。布施(ふし)は『莊子』など先秦時代(仏教伝来以前)漢籍でも使われて、後にダーナの訳語に用いられました。画像は、岩波仏教辞典、字通、佛教語大辞典の該当箇所。 pic.twitter.com/E7D5kVPEle

— nāgita #antifa (@naagita) August 24, 2018

この件、御本人にも直接メールしたものの返信がなく(その後、驚くようなリアクションにも遭いましたが、関係者にご迷惑がかかるので墓場までもっていきます)このまま黙殺する方針なのかな?と憂慮していたのですが、岩波新書編集部インタビュー「B面の岩波新書」にて、該当箇所を訂正(全削除)する旨の表明がありました。……さすが超一流出版社の岩波書店ともなると、幻冬舎とは違いますね。

www.iwanamishinsho80.com

【『初期仏教 ブッダの思想をたどる』本文の訂正】この場を借りて、校正で直しきれなかった誤記誤植を、お詫びとともに訂正させていただきます。
 p.6, l.3. brāhmana  ⇒ (正) brāhmaṇa
p.47図8 ブッダの出家 ⇒ (正) ゴータマの出家
p.113, ll.5–7. 「布施」と漢訳されたのは、 ⇒ (正) 削除
p.198, l.12. 英和 ⇒ (正) 英知
巻末p.2経典番号97. Dhañjānisutta  ⇒ (正) Dhanañjānisutta
著者の間違いではなく、編集者による校正ミスの訂正という形を取っていますが、本文に記載されていた「布施」語源に関する馬場氏の以下の解釈は全削除ということです。

「布施」と漢訳されたのは、出家者に衣の「布」を「施」すことが主要な贈与のひとつだったからである。

繰り返しますが、布施の「布」は布教や流布の「布」であって、「布(ぬの)をほどこす」という解釈は間違いです。正しくは「しき・ほどこす」という意味になります。布施(ふし)の語は『莊子』など先秦時代(仏教伝来以前)漢籍でも使われて、後にダーナdāna)の訳語に用いられました。

残念ながら『初期仏教』はまだ増刷されていないようで、書店には謬説を断言してるバージョンが出回っていますが、当該の岩波書店記事やこちらのブログ記事を読んだ方だけでも、誤解から解放されてほしいと思います。

(まぁ、手元にある漢和辞典を引けばいいだけの話なんですが……)

初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)

初期仏教――ブッダの思想をたどる (岩波新書)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

インタビュー連載『ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味』完結

佼成出版社ウェブマガジン『ダーナネット』にブッダの瞑想法をテーマにしたインタビュー連載が載りました。4週連続で5回更新。誰かをインタビュー取材する仕事はけっこうやってきましたが、自分がされるのは初めてだったので、とても勉強になりました。

ライターの方は仏教に造詣が深く、二日にわたってのとりとめない話をよくまとめて下さいました。テーラワーダ仏教の瞑想入門としては、けっこう役に立つ内容に仕上がっていると思います。以下、リンクを張っておきます。未読の方はぜひどうぞ。

 

1.ヴィパッサナーと「気づき(sati)」について

www.dananet.jp

 

2.瞑想についての疑問あれこれ

www.dananet.jp

 

3.前編 瞑想で達する境地(主に預流果)について

www.dananet.jp

 

3後編 苦と苦の原因(渇愛)について

www.dananet.jp

 

4.その他の瞑想――「慈悲の瞑想」を中心に

www.dananet.jp

 

ちなみに、デブ隠しにしてはかっこよすぎる黒Tシャツは鍋横の「麵屋どうげんぼうず」グッズです。

dgbz.stores.jp

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

仏教の基本的概念”saṅkhāra(行)”の多義性と解釈をめぐるプラユキ・ナラテボー師との論争――というか通仏教的な定説にもとづく誤謬の指摘

プラユキ・ナラテボー師というお坊さんとTwitterで仏教の基本的概念である”saṅkhāra(行)”の解釈をめぐって論争(とまでは言えるかわかりませんが論争的なやり取り)をしました。

実際のところ、論争になることは無くて、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦”における「行」を「無明に基づく心の働き」とするプラユキ師の解釈が間違っていることは確定的なんですけど、私にはよく理解できないロジックと、「いいね!」を100以上もらってるから、というこれまた全く意味が分からない理由で、師が自説を撤回することはありませんでした。

プラユキ師は「ツイッターという場で対機説法をする際に」ということも強調されていましたので、ちょっと筆が滑っただけで、「いいね!」100以上ついたTweetをいまさら引っ込めるのも立場的に苦しいのかな?と思ったのですが……たまたま、ほんとうにたまたま閲覧した「ダーナnet」のインタビューでも、師は同じ「間違い」発言をされていたんですよね。

www.dananet.jp

日本では一般に「一切皆苦」という言葉が流通し、「『人生はすべて苦である』と悟るのが仏教である」などと解釈されています。でもそれってなんか救いようが無さすぎる感じですし、仏教を学ぶモチベーションにもあまり繋がらないですよね。ところでブッダも「生きることは苦しみだよ」ということを仰しゃりたかったのでしょうか?

ブッタは実際そのようには説かれていません。原文は「サペー(一切)・サンカーラ(行)・ドゥッカ(苦)」ですから「一切行苦」、無明むみょうすなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動はすべて苦しみにつながると仰しゃったのです。そして、こうした苦しみをめつする(克服する、あるいは超克する)道もある。すなわち、無明の闇を晴らしていく方法を説かれ、そうした道を歩めば、われわれ誰でもが苦しみを滅し尽くせると仰しゃったわけです。

もちろん、引用したセンテンスがすべて間違いということではありませんが、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦”における「行」の解釈は明確に間違っています。

十二支縁起の「行」を「無明すなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動」とするのは、わかりやすい解説だと思います。釈尊ご自身が分別経(相応部因縁篇)で「行」の意味を「身行・口行・意行」と語釈されていますから。

しかし、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」は、広く「現象・作られたもの・形成するもの」を意味します。「無明すなわち真理を知らずに渇愛に染まった認知や行動」に限りません。

五蘊や十二支縁起の「行」で表している概念は、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」に包含される意味内容の一部に過ぎないのです。

ちなみに、筆者が東洋大学の印度哲学科「仏教概論」でテキストとして使った水野弘元『仏教要語の基礎知識』春秋社でも、saṅkhāra(行)の概念内容の広狭に注意するよう書かれています。

仏教要語の基礎知識

仏教要語の基礎知識

 

諸行無常」の行は最広義のものであり、五蘊の行はそれに次ぎ、十二縁起における行は最狭義のものである。(119p~)

関連するページ画像を貼っておきましょう。

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もちろん、プラユキ師のインタビュー(説法)は全体として有意義な内容だと思いますが、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「行」に関する説明は間違っているのでは? ということです。念のため。

 

仏教の正しい内容が長く伝わりますように、という願いを込めて、このエントリーを投稿します。

 

追伸:仏教用語の多義性ということでいえば、”sabbe saṅkhārā dukkhā 一切行苦"の「苦」を「苦しみ」と説明することの問題点にも触れないといけないんですけど、それをやりだすとキリがないので、今回はやめときました。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

大竹晋『大乗非仏説をこえて――大乗仏教は何のためにあるのか』国書刊行会を読んで。大乗仏教という「甘えん坊の放蕩息子」論

表題の本、献本いただき拝読しました。

大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか

大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか

 

基本的に良著と思います。情緒に流れず、しっかりした論拠を持って、仏教に惹かれる一般人に主張を伝えようという心意気が伝わってきます(kindle版を同時に出してるのも偉い!)。

まぁ、そうだよね、と思いつつ、湧き上がる違和感も。 「大乗仏教は仏教が仏教を超えてゆくためにある」という啖呵はなかなか威勢がいいんですけど昭和初期の戦時教学、そして戦後のオウム真理教事件(あれらはまさに、大乗仏教を標榜する人々が「仏教が仏教を超え」ることを決断して、利他のための大量殺人を推奨した事例ですからね……)を経験した日本の仏教研究者が口にするのはあまりにもナイーブという気がしました。

さらに付け加えるならば、利他のためにと仏教を乗り越えて天皇崇拝を宣揚し、見事に墜落した日本の大乗仏教に手を差し伸べて、再び仏教世界に復帰させたのはスリランカをはじめ上座仏教圏を中心としたアジアの仏教者たちだったわけです。 そういう近代史には、大竹さん興味ないのかな?

大乗仏教は、歴史的釈尊という着地点があるから成り立つ曲芸飛行みたいなものなので、自立を目指しちゃうと肥溜めに真っ逆さまじゃないの? というのが部外者の感想です。 威勢のいいこと言って、困ったらすぐ実家に泣きつく「甘えん坊の放蕩息子」くらいにしといた方がいいんじゃないでしょうか?

あと細かいところですが、「新来の上座部仏教団体」という呼び名でやたら日本テーラワーダ仏教協会を意識した記述が多くて、「そこまで対抗意識燃やさんでも」と苦笑してしまいました。

加えて随所に見られる、大乗仏教は歴史的ブッダと切れてる教えだけど、それでも大乗仏教のほうが人間のありかたとして尊い!という尊い判定」が一方的すぎて、オイオイと。 主観に振り切れ過ぎでしょ。

とまぁ、いろいろ腐しましたが、それでも仏教読み物としてはかなり面白い部類に入ると思います。 大竹晋さんには今後も健筆をふるって欲しいと願っているので、初期仏教クラスタのみなさんも、ぜひ購読して驚いたり闘志を燃やしたりすることをオススメします。

大竹晋さんと言えば、大乗起信論の出自をめぐる論争に決着をつけたことで名が轟いていますけど、以下の既刊も類書のないユニークな内容でおススメです。

宗祖に訊く 日本仏教十三宗・教えの違い総わかり

宗祖に訊く 日本仏教十三宗・教えの違い総わかり

 

それから、『大乗非仏説をこえて』に出てくる日本大乗仏教の「利他のための破戒」ロジックについて、龍谷大学の大谷由香先生とTwitterでやりとりさせていただきました。この方面の研究進展も気になりますね。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

『日本宗教史のキーワード――近代主義を超えて』(大谷栄一、菊地暁、永岡崇 編著)慶應義塾大学出版会に「テーラワーダ仏教」を寄稿

お仕事の報告です。

 書き出しはこんな感じです。

テーラワーダ仏教

佐藤哲朗 

布教伝道の現場から

 近現代の日本で断続的に試みられてきたテーラワーダ仏教(上座仏教)受容の歴史は井上ウィマラ[井上 二〇一六]、藤本晃[藤本 二〇一六]、青野貴芳[青野 二〇一四]に詳しい。本稿では、布教伝道にたずさわる当事者の視点から所見を述べたい。学生や研究者の皆さんが考えるヒントにしてもらえれば幸いである。筆者は二〇〇三年の春から宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会(一九九四年設立。以下、協会)に勤務し、主として機関誌や書籍の編集、インターネットを通じた布教伝道に従事してきた。国内で一時出家も体験した。日本におけるテーラワーダ仏教の実勢については、統計がなく確かなことは言えない。協会に属する寺院は国内三ヶ寺のみだが、他団体やテーラワーダ仏教圏の出身者が建立した寺院を併せると二〇ヶ寺は下らないだろう。日本人比丘はまだ少ないが、出家儀式を行う戒壇(sīmā)も国内に複数設定された。宗教的なインフラ整備は、ここ十数年でかなり進んでいる。協会の会員(月刊機関誌『パティパダー(Paipadā)』定期購読者)は全国で二〇〇〇名程だが、ほぼ全員が日本人或いは日本語ネイティブである。会員には伝統仏教諸宗派の僧侶や仏教系新宗教の教師職、また非仏教徒も含まれる。一方で、入会はしないものの協会行事の常連だったり、協会宛に定期的に布施したりする例も少なくない。会員自主活動である「ダンマサークル」も全国で盛んだが、こちらも非会員の参加を歓迎している。ウェーサーカ祭やカティナ衣法要といった大きな法事には、スリランカミャンマー、ネパール(仏教徒のネワー民族)出身の人々も家族連れで参集する。 

出版メディアにおける存在感

 協会周辺に限っても、かように曖昧な日本のテーラワーダ仏教だが、出版メディアにおける「存在感」だけは確固たるものだ。協会の指導者にあたるアルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasāra,1945-)の著作は、二七万部以上を頒布した『怒らないこと』(二〇〇六年)はじめ商業出版だけで二〇〇タイトルを超える。他にもタイで出家した日本人比丘プラユキ・ナラテボー、ミャンマーで出家し後に還俗した井上ウィマラ(高野山大学教授)、西澤卓美、浄土真宗寺院の出身ながらテーラワーダ仏教に強い影響を受けた小池龍之介、藤本晃など、日本の出版界にはテーラワーダ系の仏教書ジャンルが確立している。マハーシ・サヤドー(Mahāsi Sayādaw, 1904-1982)、アーチャン・チャー(Ajahn Chah, 1918- 1992)、ポー・オー・パユットー(Prayudh Payutto,1938-)、アーチャン・ブラーム(Ajahn Brahm,1951-)、ウ・ジョーティカ(Sayadaw U Jotika,1947-)といった海外僧侶の著作も多数翻訳出版されている。電子書籍やインターネットでの発信を含めれば情報量はさらに増える。協会の会員に限らず、一般の日本人とテーラワーダ仏教の接点は概ね書籍やネットであり、行事に参加する場合もいわゆる「法事」ではなく、瞑想会や法話会に個人で参加するケースがほとんどだ。たまさか会員になっても布教や献金の義務はない。個々の熱心度に違いはあれども、強固な「しがらみ」を形作るコミュニティ宗教の要素は希薄である。さらに言えば、会員であってもテーラワーダなる特定宗派に帰属意識を持つ人がどれだけいるか疑問だ。むしろスマナサーラの言葉を通じて、「宗派以前のブッダの教え」に触れていると感じる人が多いかも知れない。ブッダ本来の教えとは「純粋な科学」であり、テーラワーダであれ大乗であれ、そこに付着した宗教色・信仰・民族文化は「汚れ」に過ぎないというのが、スマナサーラの決まり文句である。 

原始仏教」というドメイン戦略

 矢野秀武[矢野 二〇一二]によれば、現代日本テーラワーダ仏教への共通了解は、大乗仏教より劣る小乗仏教ブッダ時代の「原始仏教」を引き継ぐ仏教、パーリ語聖典に見られる思想としての上座仏教(宗派の教え)、各地域別のエスニック上座仏教(スリランカ仏教、タイ仏教など)、といったイメージに分断されている。これらの項目の中で、日本人の「需要」が大きかったのは「原始仏教」の領域であった。その背景として、西洋由来の近代仏教学による古代インド仏教研究、パーリ仏典を普及させた中村元(一九一二~一九九九)の業績などが挙げられている。日本の近代化過程で学術面に限らず信仰面でも一定の需要が生み出されたにも関わらず、「原始仏教」を基盤とした寺院や僧侶はほとんど(まったく)存在せず、信仰面の需要は満たされない状況が続いてきた。「スマナサーラ長老を中心とする日本テーラワーダ仏教協会ドメイン戦略」がこのポイントに即していたとする矢野の分析は、協会運営に関わった立場からも頷ける。ただしスマナサーラは、未発達な仏教という意味を含む「原始仏教(Primitive Buddhism)」を避けて、より価値中立的な「初期仏教(Early Buddhism)」を用いている。また、「ブッダは信仰を否定した」という言説で「原始仏教」への信仰面の需要を逆説的に掬い取り、戒や瞑想といった「仏道の実践」へと人々を導いている。テーラワーダ仏教への共通了解のうち、「大乗仏教より劣る小乗仏教」という偏見は強固だった。歴史的に大乗仏教が栄えた日本で、「小乗仏教」とは実体のない批判対象であった。それが近代化によって現実のテーラワーダ仏教と同一視され、「劣った仏教を奉じる遅れたアジア」なる差別意識とともに、アカデミズムや公教育の場において無批判に再話され続けたのである。近年この語が廃れはじめたとすれば、アジア諸国出身者ではなく日本人が「当事者」として批判の声を上げ始めたからだろう[佐藤 二〇一三]。その前史として青木保『タイの僧院にて』(一九七六年)を嚆矢とする文化相対主義の眼差しが、テーラワーダ仏教へのフラットな理解を促したことも指摘しておきたい。話を戻せば、釈迦牟尼ブッダに直結する「原始仏教」イメージは、近現代の日本で「あるべき仏教」の理想形として形作られていった。昭和後期に伸長した仏教系新宗教が教団名に原始経典を意味する「阿含」を冠したり、パーリ語の礼拝文を取り入れたりしたように、そのイメージを実体化させんとする需要または欲求はつねに存在していたのだ。「初期仏教」の合理性と科学性を強調するスマナサーラの言説と「正念」のエッセンスを伝える瞑想指導(後述)は、一連のオウム真理教事件(一九八八~一九九五年)が決定づけた宗教忌避の風潮とも相俟って、テーラワーダ仏教を「脱宗教的な実践体系」として日本社会に受容させたのではないか。

日本仏教にもたらした変容

近代仏教史の範疇では、テーラワーダ仏教の日本移植は挫折の連続だった。釈興然(高野山真言宗、一八四九~一九二四)は、一八九〇年(明治二三)に留学先のスリランカで比丘となり、帰国後は外護者を得て日本比丘サンガ設立を期したものの失敗に終わった。さらに戦後の一九五〇年代、日本曹洞宗の青年僧侶たちがミャンマーのマハーシ・サヤドーのもとに参じヴィパッサナー(vipassanā,観)瞑想――教学上の説明は措くが、次に触れる「気づき」の実践と同義――を学んでいる。現代の修行者からすれば羨ましい話だが、本人たちは苦痛だったようで、帰国後にその学びが注目されることもなかった[小島 二〇一六]。当時、日本ではテーラワーダ仏教は「戒律仏教」と見なされており、瞑想実践(bhāvanā)への関心や需要も皆無に等しかったのである。

それから数十年を経て、日本人のテーラワーダ仏教観は「戒律仏教」から「瞑想仏教」へとがらりと転換した。そしてテーラワーダ仏教の瞑想メソッドは、日本仏教のあり方にも変容をもたらしている。すでに人口に膾炙した「マインドフルネス(mindfulness)」は、仏教用語「念(sati,smṛti)」の英訳である。そして、このマインドフルネス及びアウェアネス(awareness)から重訳された「気づき」なる日常語が、日本仏教における伝統的な「念」解釈を更新したのだ。従来、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつき難い単語に訳されていた。そこにテーラワーダ仏教のサティ概念が(英語経由で)移入されたことで、仏道の要諦たる「正念」の実践が一気に普及したのである。

二一世紀になって、宗主国アメリカからヴィッパサナーをアレンジした「マインドフルネス瞑想」が本格導入されると、この傾向に拍車がかかった。テーラワーダ仏教色が強い「ヴィパッサナー」の受容には抵抗していた伝統仏教界も、アメリカ流の「マインドフルネス」ならば容易に受け入れた(出世間を志向しない点を除けば、内容はほぼ同じなのだが)。現在では宗派を超えて伝統仏教の僧侶が「マインドフルネスコーチ」の肩書を掲げて活動するまでになっている。

イメージと実像の乖離

開国以来の紆余曲折を経て、「原始仏教」志向の受け皿となることで橋頭堡を築いたテーラワーダ仏教は、日本人が国内でアクセスできる仏教の一つとして定着したと言えるだろう。その一方、「原始仏教(初期仏教)」あるいは「瞑想」をドメインとした伝道のあり方が、テーラワーダ仏教の実像と乖離を生んでいる側面もある。例えば、テーラワーダ=瞑想仏教というイメージを抱いて「本場」の仏教に触れると、大半の仏教徒が「瞑想」に関心を持たず、祭礼や布施儀式に熱心な姿を目撃して困惑することになる。これは、アメリカやヨーロッパで禅堂に通い、いざ「仏教国日本」を訪ねてギャップに驚く欧米仏教徒の感覚に近いかもしれない。さらに近年は、スリランカミャンマー・タイで頻発する仏教と他宗教の「宗教対立」、アシン・ウィラトゥ(Ashin Wirathu,1968-)らナショナリスト僧侶によるヘイトスピーチなどが頻繁に報じられ、テーラワーダ仏教への日本人の好意的印象に不穏な影を落としている。「脱宗教的な実践体系」だったはずの教えが、極めて偏狭な宗教の「毒」をふり撒くさまを見せられれば、興醒めも仕方ない話だろう。かくして「テーラワーダ仏教のリアル」と対決を迫られる日本のテーラワーダ仏教原始仏教ドメイン戦略部門)。布教伝道の波頭から見える光景は、このようなものだ。

 

【参考文献】

  • 井上ウィマラ 二〇一六「欧米・日本の上座仏教」、パーリ学仏教文化学会 上座仏教事典編集委員会編 二〇一六『上座仏教事典』めこん
  • 小島敬裕 二〇一六「ミャンマー上座仏教と日本人――戦前から戦後にかけての交流と断絶」、藤本晃 二〇一六「テーラワーダは三度、海を渡る――日本の土壌に比丘サンガは根付くか」大澤広嗣編『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』勉誠出版
  • 青野貴芳 二〇一四「日本のヴィパッサナー瞑想史」蓑輪顕量監修『別冊サンガジャパン① 実践!仏教瞑想ガイドブック』サンガ
  • 矢野秀武 二〇一二「タイ上座仏教の日本布教――タンマガーイ寺院についての経営戦略分析」中牧弘允、ウェンディ・スミス編『グローバル化するアジア系宗教 経営とマーケティング東方出版
  • 佐藤哲朗 二〇一三『日本「再仏教化」宣言!』サンガ

あ……全文載せちゃった。原稿料貰ってるわけでもない(一冊献本いただきました!)ので、別にいいでしょ。他の先生のコラムも「いろいろあるねぇ」という感じで面白いので、日本の宗教史に興味ある方はぜひお買い求めください。

日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて

日本宗教史のキーワード:近代主義を超えて

 

 ~生きとし生けるが幸せでありますように~

 

馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書1735について。「布施」の語釈と、アレクサンドロス大王のインド遠征軍に同行したジャイナ教行者の話など

同じこといろんな場所に書く気力がない、ということでTwitterFacebookにかまけてブログはさぼってますが、いくつか残しておきたいことが出てきたので書きます。

以下、馬場紀寿『初期仏教 ブッダの思想を辿る』岩波新書1735についてのTwitterメモ。「布施」の語釈と、アレクサンドロス大王のインド遠征軍に同行したジャイナ教行者の話など。

 

まとめ。

  • 布施とは断じて「布を施す」という意味ではありません!
  • アレキサンドロス大王と友達になったジャイナ教行者カラノスについてもっと知りたい!
アレクサンドロス大王東征記〈下〉―付・インド誌 (岩波文庫)

アレクサンドロス大王東征記〈下〉―付・インド誌 (岩波文庫)

 

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

2017年の出版関係お仕事(スマナサーラ長老の書籍など……結局かなり盛りだくさん)

2017年に出た仏教書の振り返りもしようかなと思ったけど、とりあえず年内に挙げておくべき記事ということで、今年たずさわった出版関係お仕事(スマナサーラ長老の書籍編集など。協会機関誌『パティパダー』や施本制作は除く)を載せておきますね。

【電書】は古いタイトルの電書化、または電書のみでの刊行。その他は原始書籍(紙を綴じたやつ)ですが、断り書きをしたタイトル以外は、ほぼ同時に電書版も出ています。

原始仏典――その伝承と実践の現在―― (サンガジャパンVol.25)

原始仏典――その伝承と実践の現在―― (サンガジャパンVol.25)

 

サンガジャパンで今年から連載が始まったスマナサーラ長老のパーリ経典解説「スッタニパータ(経集)第五『彼岸道品』」で構成を担当してます。編集者・ライターとしてはほんとにやりがいのある仕事ですね。まだ雑誌連載の段階ですが、仏教書読み全員必読と言いたい濃厚な内容なので、ぜひサンガジャパンを手に取ってみてください。

PHPから2008年に出たロングセラー(手帳サイズ)の文庫化です。一部に加筆修正を施しました。

【電書】2007年に宝島社から出た『「やさしい」って、どういうこと?』(2009年に文庫化改題)の電書版です。宝島社は紙の書籍に拘泥して電子書籍をまったくやる気がないようなので、再編集版を協会からKDP使って出しました。タイトルは初出に戻したほうがよかったかな、と後になって思ったのですが……。(^^;

[新装版]老病死に勝つブッダの智慧

[新装版]老病死に勝つブッダの智慧

 

2008年に出た『まさか「老病死に勝つ方法」があったとは―ブッダが説く心と健康の因果法則』(2009年、サンガ新書化に伴い改題)を単行本サイズで新装版として再発したものです。

視野狭窄になりがちな親子の関係を輪廻と業という巨大なスケールで俯瞰して、互いの「学び合いの関係」として捉えなおす視座を提供してくれる一冊です。ちなみに第五章「親子関係のしまい方」では、孫との接し方や、自ら死に向かって執着を捨てる訓練についても説かれています。子育て世代に限らず、幅広く読まれてほしい本です。

【電書】2014年に刊行された協会施本が底本。電書化にあたり文意がより明確になるようスマナサーラ長老から一部加筆を賜りました。「言葉は人生を潰す重荷にもなり、成長の頂点に立たせる力も持つ」という宣言から始まる、ブッダの実践言語学とも言うべき緻密な作品です。人間らしい生き方を左右する感情と理解能力。言葉の問題を考える上で避けて通れない洗脳とマインドコントロールの分析。ひとの人生を設定する言葉の重み。そして、ブッダが教えた幸福になるための言葉の使い方。日常会話に限らず、SNSなどで言葉を発信する機会の多い現代人にとって、戒めとなるポイントが数多く示されています。

【電書】2008年刊行の拙著を増補改訂しました。詳細は以下のブログ記事で紹介済みです。つぎはぎだらけではありますが、最近の近代仏教史研究に関する成果を概観した「電書版あとがき」などまだこのジャンルの基本書としてのクォリティは失っていないと思うので、未読の方はぜひ目を通していただきたいと思います。

naagita.hatenablog.com

【電書】 2009年刊行の同タイトルを電書化。朝日カルチャー講義「初期仏教入門」うをもとに構成された作品です。タイトル通り、智慧を「人生の羅針盤」として生きるために、仏教の基本的な概念をしっかりと学び直す本で雨。3章までは初期仏教から見た、生きるとは何か?、生きるとは何かと知ったうえで我々はどう生きるべきか?という分析です。4章・5章は仏教における理想の境地である「涅槃」について論じられています。「悟り(さとり)」は日本独自の言葉で「覚り」こそが真理への目覚め。解脱とは得るのではなく、ただ捨てるだけ。涅槃とは決して語れない。……といった根本的で刺激的な言葉の数々にぐいぐい引っ張られます。読後は仏教知識がデフラグされたような爽快感に包まれることでしょう。

【電書】 初出は2004年のロングセラー(協会刊)。何冊かある子育てをテーマにしたスマナサーラ長老の本のなかでも定番といえる一冊を電書用に再編集しました。冒頭で、育児の基本となる「人生の目的」について問い直し、現代人を悩ます子育てに関する固定観念を巧みに解きほぐします。中盤から後半にかけては、吉祥経や六方礼経(シガーラ経)から親子関係の極意を学びます。締めくくりに登場するラーフラ尊者と父であるお釈迦さまの対話は本当に感動的です。巻末収録された小学三年生の女の子から長老への9の質問も、はっとさせられる内容で、子育ての当事者以外にも勉強になることが多い一冊です。

スマナサーラ長老がご自身のこれまでの歩みと経験に照らしながら、人間が幸福に生きるための道筋を示したエッセイ集です。「いま、自分が何をするべきなのか。どうしたら最善を尽くせるのか。常に考え、判断し、実行してください。成長の歩みを止めないようにしましょう。それが大人の条件です。」(本文より)長老が仰る「大人の条件」、身に沁みます。

【電書】2007年に単行本が出たロングセラー(2011年サンガ選書)の電書化。ひとは誰でも、複数の「顔(性格)」を使い分けて世間を渡っています。貪瞋痴に突き動かされつつ、決定的な破たんを避けようと、本音と建前の相反する心を切り替えて生きています。自分とは確固たるものではなく、煩悩と体裁のあいだで絶え間なく変化し続ける代物に過ぎません。「本音」に渦巻く悪を「建前」の善で隠そうとする自己欺瞞の過程で、我々のアイデンティティは必然的に断片化されるのです。この自己欺瞞なしに、一日たりとも正常な社会生活を送ることは適わないでしょう。「善を行うつもりで、善を演じる」という「こころの騙し機能(ワンチャカダンマー)」によって、修行者の人格向上もまた妨害されているのです。この矛盾を打開する処方箋はあるのでしょうか?……という重厚な一冊です。

【電書】2011年に出た単行本の電書化です。タイトルは縁起の分析ですが、過半を占めるのは四漏、五蓋(六蓋)、七随眠、十結、三十七菩提分法(四念処、五力、七覚支、八正道など)といったパーリ経典に頻出するキーワードを、アビダンマ哲学の心・心所論に当てはめていく摂集分別。アビダンマ哲学のテクニカルタームと、実際の仏説たる経典の言葉との差異にモヤモヤしていた読者の気持ちが、やっとここで(ある程度)スッキリするという塩梅です。後半の縁起編は難解ですが「昔も今も、私は苦しみとその原因について語っている」という釈尊の言葉に沿って、実践に役立つポイントを抽出した解説が施されており、ラストの瞑想編(7,8巻)へのブリッジに相応しい内容。やはり全巻通してすごい作品と思います。 

無我―「私」とはなにか― (サンガジャパンVol.26)

無我―「私」とはなにか― (サンガジャパンVol.26)

 

こちらはまだ電書版が出てませんね。スマナサーラ長老と前野隆司先生の対談「『私』とは幻想である――仏教と幸福学の対話 心とは何か? 幸せに生きるとはどういうことか?」お手伝いしたのと、パーリ経典解説 連載第二回「スッタニパータ(経集)第五「彼岸道品」一、アジタ仙人の問い〔後編〕」構成を担当しました。

「ためこみ」という現象をモノ・ココロの両面から分析し、正しい自己管理を学ぶ本です。ゴミや悪感情は勝手にたまるけど、価値あるものや善感情は努力しないとたまらない、という指摘は辛辣です。最終章では、「ためる」(俗世間)から「捨てる」(出世間)への価値転換が説かれるあたり、仏教書としての筋がビシッと通っていてカッコいいです。

般若心経は間違い?

般若心経は間違い?

 

【電書】2007年の刊行以来、大きな波紋を惹き起こしたスマナサーラ長老の代表作です。日本はもとより、大乗仏教の影響を受けた東アジア諸国でもっとも有名な経典『般若心経』を初期仏教の角度から批判的に読み解き、併せてお釈迦さまが説かれた「空」や「無我」の真理を開顕する挑戦的な内容です。テーラワーダやパーリ仏典に関する書籍が豊富に刊行されている現在に比べれば、まだまだ初期仏教の認知度が低かった時期の著作です。それだけに、主観的な「マイ仏教」の培養液のごとき『般若心経』をなんとなく愛好してきた日本社会に一石を投じ、ブッダ本来の教えに「覚醒させる」効果は抜群だったろうと思います。底本は文庫化を経て、しばらく版元品切れとなっていました。電書化を機に、また新たな読者と仏縁を結べることを願っています。 ……Amazonのカスタマーレビュー読めば分かりますが、いわゆる「なんでも突き詰めれば一緒」とか安易にいっちゃうスピリチュアル系の人には非常に癇に障る内容なので、一種のリトマス試験紙のような本になってます。さて、あなたはどうでしょうか?

【電書】去年のまとめで紹介しましたが、単行本も刊行日付は今年1月になってましたね。 約半年遅れて電書化。7,8巻に分冊されていた『ブッダの実践心理学』の完結編、サマタ瞑想編とヴィパッサナー瞑想編を増刷のタイミングで一冊にまとめた作品です。テーラワーダ仏教のさまざま冥想実践と、ヴィパッサナー実践による智慧(観智)の開発プロセスが体系的に解説されている必読の書です。

 2013年刊行の単行本を文庫化。施本として頒布された長老のパーリ経典解説から、冥想をテーマにした5つの作品を加筆修正した選集です。中部117『大四十経』を扱った1)『八正道大全-ブッダの「偉大なる四十の法門」』では、仏道の根幹である八正道について、善なる(有漏)八正道と聖なる(無漏)八正道という二段階で説明されます。2)『瞑想による覚りへの道 お釈迦様のお見舞い』は、相応部六処篇『疾病経』(一)の解説。病気の比丘たちへの指導とあって、ヴィパッサナーはこれだけ読めば分かる、と言えるほど簡潔にして的を射た記述です。3)『勝利の経』は身体の「不浄」を観察する有名な経典で、『スッタニパータ』に収録。4)『常に観察すべき五つの真理』は増支部五集より。老・病・死・別離・業という五つの真理を念ずる冥想経典。5)『サッレーカ・スッタ 戒め-「自己」の取扱説明書』は、中部8『削減経』の解説。44の道徳項目を念じて自己を戒める冥想実践が詳説されます。最近、初期仏教の実践は〇〇メソッドなど特定の型にはまった行法と見なされがちです。本書を通してお釈迦さまの指導にじかに触れることで、より自由かつ精緻な「気づき(sati)の世界を垣間見れると思います。ちなみに電書化はまだです。

禅ー世界を魅了する修行の系譜ー(サンガジャパンVol.27)

禅ー世界を魅了する修行の系譜ー(サンガジャパンVol.27)

 

以下のブログ記事で詳しく紹介済み。スマナサーラ長老の連載「パーリ経典解説3 スッタニパータ(経集)第五「彼岸道品」二、ティッサ・メッテイヤ仙人の問い」で構成を担当しました。 長老と藤田一照師の対談「テーラワーダからみた禅」(連載第一回)もお手伝い。

naagita.hatenablog.com

【電書】2002年にスタープレスから刊行された同タイトルの電書再編集版です。長老の著作としては最初期のヒット作で、わりとイケイケの自己啓発本っぽいタイトルと見出しは時代を感じさせます。もちろん内容はいま読んでも素晴らしく、「気づき」の実践によって心のポテンシャルを高め、よりよき人生を歩もうという仏教的な前向き思考で貫かれています。読後感も爽快なので、ぜひお手元のスマホなどにご常備ください。 

ここ数年、恒例となっていたスマナサーラ長老監修の月めくりカレンダー新作です。去年までの絵手紙風から新規一転、「猫」とのコラボ企画となりました。近年の住宅事情なども考慮して、サイズを小さめに変更しています。ダンマパダを意訳した「こころおだやかにニャる」言葉と愛らしい子猫写真は、なぜか絶妙に合ってます。一月の言葉は「心を守るならば、幸せになれる」(ダンマパダ35偈)。解説文も「すべての現象は無常です。家族も財産も、健康や命さえも、絶えず変化して壊れていきます。守りきれるものではありません。一つだけ守れるもの、それは自分の『心』です」云々と、猫の可愛さにデレデレせず、直球の初期仏教を伝えていますね。ちなみに、裏表紙の長老写真も子猫とのツーショット!

【電書】初出は2015年の協会施本。忍耐・堪忍というキーワードから、ダンマパダ『諸仏の教え』を修行完成に至る実践論として解説した類書のない法話です。法門に初級も中級もありませんが、仏法のシンプルだけど底知れない凄さを読み取れる本だと思います。

2015年に刊行された『執着の捨て方』を文庫化した作品です。遠離から喜びが生じる~』の講義内容をもとにして構成された作品。仏教で説かれる四種の執着(ウパ―ダーナ)の解説と、そこから自由になる練習法を教えてくれます。電書はありませんね。

仏教と科学が発見した「幸せの法則」

仏教と科学が発見した「幸せの法則」

 

幸福学の提唱者として知られる前野隆司先生(慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授)との対談集です。話題は多岐にわたりますが、「人間(生命)にとって幸福とは何か? そして人間(生命)が幸福に達するための筋道とは何か?」という太い問題意識に貫かれており、飽きさせません。帯に掲載された推薦者お二人の言葉もふるっています。

幸福についての議論は、時に表面的なものになりがちだ。ロボット工学、意識の科学、幸福学の知見が、仏教の思想、実践、伝統と響き合う本書は、深い本質の部分での「幸福論」を提供している。知的好奇心と感情の両方が満足する、稀有な本である。(茂木健一郎

『私』の実存を否定することでヒトは幸せになる――。本書ではそんな火の玉のように熱い議論が、しかし静謐に展開されます。そして、読み終えた私の中に新しい自分像が芽生え、なぜか不思議と安堵するのです。(池谷裕二

どうです? 読書意欲が湧いてきませんか?電書も近々に出るはずです。そういえば、 前野隆司先生はご自身のブログにて、単行本で割愛されたやり取りを振り返りこう述べています。

ただし、一つだけ少し残念な点がありました。対談の中で一番面白かった点が、本からはカットされた点です。長老が「日本の大乗仏教はまちがっている!」とかなり強い口調でおっしゃるので、僕は聴きました。

「長老は『怒らないこと』(サンガ新書)というベストセラーを書かれているわりには、憤りを強くあらわされますね」と。怒っているように見えたからです。すると、長老はおっしゃいました。

「怒っているんじゃないよ。笑っているんだよ!」と。詳しく書くと以下のとおりです。

「私は怒りは感じません。馬鹿なことをやっている人たちを見ていると、どうしてそんなことをするのかと、楽しくなるのです。腹は立ちません。「チャンスがあったら教えてあげますよ」という気持ちなのです。皆がなんだかおかしなことをやっているのが透けて見えるので、私は笑っているのです。」

怒っていると思ったら、笑っていたとは。文化が違うと、感情表現は違うのだなあ、と驚きました。

本を読んだ方は、長老はかなり穏やかな方だと思われるのではないかと思いますが、実は、日本の価値観から見ると、かなり情熱的な方だと感じました。上座部仏教大乗仏教の違いなのか、スリランカなどの南国と日本のような北のほうの国の違いなのか。僕は自分が自文化中心主義には陥っていないつもりでしたが、文化横断的な視点から世界を見ることの難しさを改めて感じた対談でした。

Takashi Maeno's blog |2017年10月

長老の法話や雑談に何度も触れると、怒っているようだが本人は面白がって笑っている、という独特のノリをそういうものかと受けとめる体勢(耐性)ができるのですが、初めて接する人はやっぱ怒っていると感じるんだ……。でもそこのギャップが対談で一番面白かったと素直に言っちゃう前野先生もかなりぶっ飛んでますね。とにかく、人によっていろんな読みどころが発見できる良著だと思いますので、未読の方はぜひどうぞ!

【電書】1998年に大法輪閣から刊行され、20年近く読み継がれてきたロングセラーが電書になりました。「心の成長」がブッダの教えの核心であることを多角的に説いた仏教入門書です。いま読んでもまったく古さは感じません。世紀の変わり目に本書を読み、まさに「常識が一変」した思いがして、当時は目白にあった協会事務局に電話をかけたのは僕です。

【電書】日本テーラワーダ仏教協会の月刊機関誌『パティパダー』長期連載中の「釈尊の教え・あなたとの対話」をテーマ別に再編集したQ&Aシリーズの第一弾。AmazonKindle用電子書籍オリジナル企画です。毒舌とやさしさと力強さがコンボで降り注ぐスマナサーラ長老のQ&Aはまとめて読むと迫力も倍増です。きっと人生に立ち向かう勇気が湧いてくると思います。内面に向き合う人のための「こころ編」は年始早々に第2巻が刊行予定。以下、対人関係に関する悩みを集めた「人間関係編」、子供についてのあれこれ「教育編」、より良く生きるためのヒントが詰まった「ライフハック編」が出版に向けて鋭意準備中です。

↓※「こころ編2」予約受付しております!

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……… (゚∀゚)アヒャ

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というわけで駆け足で紹介してきましたが、手抜きして記事一本にまとめようと思ったら大変なことになったわ、という感じです。徐々に原始書籍から電子書籍に軸足を移しつつありますが、来年も楽しくてためになる仏教書づくりに励んでいきたいと思います。

それでは、皆様よいお年を!(^^♪

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

(私の心の汚れが徐々に無くなりますように)