吉村均『空海に学ぶ仏教入門』ちくま新書(2017年に読んだ仏教本より)

Twitterで書き散らしていた読書メモまとめ。その4は吉村均『空海に学ぶ仏教入門』ちくま新書です。

空海に学ぶ仏教入門 (ちくま新書)

空海に学ぶ仏教入門 (ちくま新書)

 

空海の教えにこそ、伝統仏教の教義の核心が凝縮されている。弘法大師が説く、苦しみから解放される心のあり方「十住心」に、真の仏教の教えを学ぶ画期的入門書。

弘法大師空海が『大日経』をもとに体系化したといわれる「十住心」の解説という形で、日本に伝来した諸々の(北伝)仏教の教えを概説していくというユニークな(しかし近代以前にはわりと定石だったかも知れない)仏教入門書です。テーラワーダ&初期仏教びいきの人が読んでも勉強になる、仏教の芯をしっかり掴んだ本だと思います。

終章に出てくる東京から金閣寺に旅行する話とか、譬え話も上手です。たとえ話が上手ということは、著者が難解な仏教用語のカセット効果(柳父章)に頼らず、きちんと内容を理解している証拠ですからね。

途中、道元の「修証一等」や親鸞の「悪人正機」といった論争的なキーワードについても、さらっと穏当で解毒的な解説をしていてニヤッとさせられます。宗派によって変異の激しい概念やテクニカルタームを整理整頓していく手さばきは巧みで、さすが真言宗は総合仏教だなと感心させられます。

いわゆる部派仏教の系譜に触れる際も、「小乗」という差別語を避け声聞乗などの語を用いており、さらにそれが北伝仏教における論争を前提とすることも明記しています。現存するテーラワーダ仏教上座仏教)と雑に混同しないよう気をつけているのも読み取れます。

近代仏教学でネグられり曲解されたり散々だった「輪廻と業」の問題を誤魔化さずに論じているのは偉いし、輪廻否定の戦犯である和辻哲郎の過ちを正しつつ、いいところは掬い上げているのも偉いと思います。大人な態度だわぁ。

ただ、チベット仏教の伝承である「龍樹(龍猛)は600年生きた」説がやけに強調されてたり、密教に顕著なグルイズム的傾向への批判的視点が感じられなかったり、という点はちょっと不満でした。ご本人は真言宗の人だから仕方ないっちゃ仕方ありませんが……。

近代以降の仏教学者やそれに影響受けたインテリ僧侶にありがちですが、「仏教と他宗教との共通するところを「非仏教」として切り捨てていったら誰も仏教を実践できなくなっちゃうYO! 」という著者のツッコミは尤もだと思います。

しかし、神仏習合に端的に現れている土着宗教に接続する形での仏教伝道の戦略が、大陸における道教や新儒学の台頭、日本における神道の自立などによって破綻したことを考えると、「仏教は心の科学」(スマナサーラ長老)という非宗教・脱宗教的な伝道戦略にシフトしたほうが妥当なのではないか、という気もします。

それは仏教が科学に隷属することではなく、かつて専ら宗教に取付けていた「出世間」へのアクセスポイントを科学にも設置しようということです。

話は脱線してきましたけど、そういえば密教のルーツってもしかして「律」文献にあるのではないか?……とボンヤリ思ってるんですけど、そういう先行研究ってありますかね? ゆる募。「蛇除けの呪文」がどうとかじゃなくて、もうちっと教えを秘匿すべきロジックみたいなところの話です。(あ~、もう帰ってこれない。終わります。)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

桜井哲夫『一遍 捨聖(すてひじり)の思想』平凡社新書(2017年に読んだ仏教本より)

Twitterで書き散らしていた読書メモまとめ。その3は桜井哲夫『一遍 捨聖(すてひじり)の思想』平凡社新書です。

一遍 捨聖の思想 (平凡社新書)

一遍 捨聖の思想 (平凡社新書)

 

仏教のなかで「浄土教」という教えがどのように形成されてきたのか、インド、中国、日本へと繋がる系譜をたどりながら、その流れのなかで「一遍と時衆」の思想を再考しようという試み

第1章:浄土教のルーツを求めて 第2章:日本における浄土教の展開 第3章:一遍と時衆 第4章:「一遍上人語録」を読む、という構成。詳細目次は版元ページに載ってます。

www.heibonsha.co.jp

再来年が一遍亡き後時宗(時衆)教団を結成して二祖真教(他阿)の入寂から700年に当たるので、一遍と時宗に関する出版が増えるようです。高校時代からの一遍好きとしては嬉しい限りで、本書も楽しく拝読しました。(なんせ仏教書ベスト3に『一遍上人語録』を入れてますからね。)

note.mu

日本史の流れの中で浄土宗や真宗に概ね吸収されてしまった多様な阿弥陀信仰と「聖(ひじり)」の系譜をインドから続く2000年以上の宗教思想史に位置づけようという企図は素晴らしいと思いました。

第2章では最近の研究を踏まえ、親鸞の出自(源頼朝の親類説)や結婚歴(玉日姫論争)についてまで詳しく紹介されています。また、最近、講談社学術文庫に入った竹村牧男『親鸞と一遍 日本浄土教とは何か (講談社学術文庫)』も複数回引用されてます。僕も読みましたけど、碩学にしてはなかなかエモい浄土教論でしたね。

それに対して、一遍に直接的な影響を与えたはずの証空(證空)と西山義(西山浄土宗浄土宗西山派との関係については記述があっさりしすぎているように思います。一遍は思想的に西山義(証空の思想)を乗り越えた、という結論だけが強調されます。

しかし、第4章で一遍語録から「念仏の下地をつくる事なかれ」の言葉が引かれています、この言葉は證空の「白木念仏法語」(『法然上人絵伝』収録)と強く響きあっていると思います。

naagita.hatenablog.com

一遍の思想に証空とその教えがどう影響を与えたのか? 親鸞の嫁さんの話なんかよりそっちを詳しく知りたかったというのが正直な感想です。

これは一遍の思想というより仏教の基礎知識ですが、第4章の「百利口語」解説(p190)で、生老病死の四苦のうち生苦について「生きる苦しみ」と誤った説明をしているのが大変気になりました。

生苦(jātidukkha)の正しい意味は、「生まれる苦しみ」あるいは「生まれることの苦しみ」(大辞泉)です。江戸時代に編纂された注釈書、俊風『一遍上人語録諺釋』(大日本仏教全書66巻)でも当該箇所は「生まれる苦しみ」であると注釈されています。

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これは単純ミスと思うので、増刷時に訂正を願いたいところです(未確認)。仏典の説明では、生苦とは「生命は受胎してからずっと胎内で激しく苦しんで、胎外に排出されるときも激しく苦しんで、出産後も胎内との環境変化でまた激しく苦しむ」ことです。『法苑珠林』の説明はなかなかエグいです。

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

おまけ:

『サンガジャパンvol.27 特集「禅」』(2017年に読んだ仏教本より)

Twitterで書き散らしてた読書メモまとめ。その2は『サンガジャパンvol.27 特集「禅」』です。

禅ー世界を魅了する修行の系譜ー(サンガジャパンVol.27)

禅ー世界を魅了する修行の系譜ー(サンガジャパンVol.27)

 

『サンガジャパンvol.27 特集「禅」』では、アルボムッレ・スマナサーラ長老の連載「パーリ経典解説3 スッタニパータ(経集)第五「彼岸道品」二、ティッサ・メッテイヤ仙人の問い」で構成を担当しました。注目の特集「禅」はどの記事も読み応えありましたよ。

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特集記事は、スマナサーラ長老と藤田一照師対談「テーラワーダからみた禅」(連載第一回)から始まって、デイヴィッド・チャドウィック「鈴木俊隆老師とビートニクの詩人たち」、鈴木老師のご子息である包一師インタビューは歴史の証言として貴重なものです。

円覚寺管長の横田南嶺インタビュー「求道と救済」では、横田師が日本の仏教者には珍しく「戒(シーラ)」の意味をしっかり捉えていることに唸らされました。後半『延命十句観音経』の話になると、なんだかなぁと微苦笑しちゃったけど……。(;^_^A

井上貫道師インタビュー「決着がついたら自由になる」は本当に味わい深く、星飛雄馬さん「井上義衍老師伝」も大変勉強になります。それから臨済宗では妙心寺派の細川晋輔師インタビューも興味深かったです。公案にガチで取り組むとはどういうことか、語られていて面白い。また、曹洞宗では年上僧侶への敬称程度になっている「老師様」が臨済禅でいかに重要で大切にされているかと強調しています。

次に出てくる人間禅とかいうのは……う~ん、反面教師としか言いようがないですな。

中村龍海「”ZEN”の起源」、星飛雄馬「禅ブックガイド」で特集記事は手堅く終了。連載記事は自分の担当以外はあまり興味を惹かれないので論評を控えておきます。しかし、経典どころかスリランカの史書までも完全無批判に文字通り信じ込もうとしてる藤本晃さんの筆致には、一抹の心配を感じます。(最近、佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教』で名指し批判されとりましたが……)

naagita.hatenablog.com

今回の特集記事を全体的に俯瞰すると、いわゆる禅宗の最大宗派である曹洞宗が(井上師などの傍系を除いて)修証一等という道元思想のミスリードで自縄自縛となり、「おすわりワンコ教団」(某師談)に堕しているところを何とかしたい藤田一照師とスマナサーラ長老が肝胆相照らしたところで、ようやく日本でも光があたった鈴木俊隆師の米国での軌跡をたどり、日本にいまも脈々と生きづく「元気な禅」の姿を紹介していくという流れかな? サンガジャパンvol.27 特集「禅」とてもいい企画だったと思います。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

佛教史学会編『仏教史研究ハンドブック』法蔵館(2017年に読んだ仏教本より)

Twitterで書き散らしてた読書メモを年末に向けてまとめたいと思います。2017年に読んだ仏教本の記録として。まずは佛教史学会編『仏教史研究ハンドブック』法蔵館です。

仏教史研究ハンドブック

仏教史研究ハンドブック

 

インド、アジア諸国・地域、中国、朝鮮半島、日本の仏教の歴史と教義がつめこまれた便利でコンパクトな一冊。仏教史を学び始めたい人、幅広く知りたい人に最適!

版元ページに詳細目次が載ってます。

www.hozokanshop.com

これはすごい。日本仏教編では第4章がまるまる「日本近代」とな。20年前だったら想像だにつかない研究トレンドの変化っすな。(^^♪

その一方で、第1部第1章「インド」は日本その他仏教圏で用いられた”素材”としての仏典編纂史をなぞっているだけで、インド仏教の展開を通史的に捉える視座は皆無。勿論アンベードカルによる近代仏教復興運動は本文でも巻末年表でもガン無視。第1部第2章「アジア諸国・地域」も、やけにあっさり。

第2部「中国」「朝鮮半島」は日本への影響が大きい地域だけにバランスよい概説になっていると思う。まだまだざっと眺めただけの印象だけど、分野ごとの記述の偏りを感じ取るだけでも、現代日本の研究者たちが仏教史にそそぐ眼差しのありさまが伝わってきて面白い読み物です。

ちなみに第3部「日本」第4章「日本近代」(3)「異文化接触」 3「来日仏教徒」を吉永進一先生が執筆されているのですが、参考文献欄に拙著『大アジア思想活劇』サンガ,2008 を挙げて下さっています。いつもありがとうございます。m(_ _)m

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

島田裕巳『天皇は今でも仏教徒である』サンガ新書 象徴天皇の「菩薩行」とは?

島田裕巳さんの新刊『天皇は今でも仏教徒である』サンガ新書、読みました。

天皇は今でも仏教徒である (サンガ新書)

天皇は今でも仏教徒である (サンガ新書)

 

これまで天皇が、自らの信仰は仏教であると公言したことはない。しかし、明治に入るまで、天皇の信仰の中心にあったのは仏教にほかならない。古代から中世にかけて、代々の天皇は仏教に対する強い信仰を持っていた。代々の天皇の熱心な信仰がなかったとしたら、果たして日本の社会にこれだけ仏教は浸透したであろうか。天皇の仏教信仰は、個人的な次元にとどまらず、日本社会全体に多大な影響を与えたのである。天皇が象徴行為を模索した背景には、仏教を信仰して菩薩行に励んだ光明皇后貞明皇后がいるのではないか。天皇と仏教との関係は深い。その関係がいかなるものか、本書において明らかになる。

主要目次:

1 近代が大きく変えた天皇の信仰
2 なぜ天皇は仏教を選んだのか
3 仏教にのめりこむ代々の天皇
4 天皇と仏教界の深い結びつき
5 なぜ天皇は仏教の信仰を失ったのか
6 近代の天皇と宗教
7 象徴天皇の菩薩行

◆よいところ

「歴代天皇と仏教信仰」あるいは「皇室と仏教」という、あまり触れられることのなかった日本史の太い縦糸を古代から近代まで通史的に概観できる、便利でありがたい本だと思います。去年の「ひじる仏教書大賞」に輝いた『近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代』法蔵館でも、天皇あるいは皇室と仏教の関係を扱う項目は見事に抜け落ちていましたからね。

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

 

ネットでも内容の一部が読めます。

president.jp

◆いまいちなところ

ただ、新書という制約はあれど、肝心の表題「天皇は今でも仏教徒である」の論証はちょっと弱いので、状況証拠をもっと提示してほしかったところです。基本的には山口百恵は菩薩である」というのと同じ類の願望含みの断定(当時のノリはよく知らんけど)から脱しきれていない気もしました。

史記述についても不満がのこります。明治維新の際、還俗の圧力に抗して仏教信仰を貫いた日榮尼ら3人の皇族出身女性についてまったく触れられていないのは(ページ数の制約のせいでしょうが)いささか寂しく思いました。かなり劇的で盛り上がるエピソードのはずなんですけどね。

naagita.hatenablog.com

昭和天皇と仏教との関わりについても、具体的な記述は見当たりません。しかし昭和天皇最晩年の御製「夏たけて堀のはちすの花みつつ仏のをしへおもふ朝かな」はよく知られていますし、日本の敗戦に際して天皇仁和寺で出家(退位)させて戦争責任追及を免れようという珍妙な計画が練られた話も昭和史マニアには有名です。そのへん、あっさり割愛されているのはなぜだろうと首をかしげてしまいました。

実は、かつてスマナサーラ長老と一緒に伊勢神宮を参拝した際にガイドしてくれた神宮広報の方が、昭和天皇は晩年には仏教に惹かれていたとやけに強調されていた(リップサービスかも知れませんが、神宮と仏教の深い関係を詳しく説明してくれました)ことが記憶に残っていたので、ちょっと肩透かしを食らった感じがしました。

◆象徴天皇の「菩薩行」とは?

現代の天皇は「主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第一条)日本国の象徴です。いまの天皇の信仰について論じた(想像をたくましくした)最終章は「象徴天皇の菩薩行」と銘打たれており、日本人の宗教観(日本国民の総意)のありかを問い直す射程の長い考察になっています。味わって読みたいところです。

平和憲法を体現した象徴としての天皇の行為(被災地への見舞い、追悼と慰霊の旅など)を「菩薩行」と位置づけた島田さんの結論は、決して奇をてらったものと言い切れないでしょう。ただ、いまの天皇の行動に仏教の影響を見出そうとするならば、美智子皇后の思想や交友関係について、もうちょい触れてほしいと思いました。

僕の乏しい知見から具体的に挙げるならば、美智子皇后鶴見和子南方熊楠研究)、そして鶴見和子との縁で引き合わされた石牟礼道子(『苦界浄土』)と美智子皇后の交流に言及することは避けてはならないのではないかと思います。

水俣における菩薩の「授記」

2013年10月に実現した、天皇皇后と水俣病患者たちとの会見と対話は、鶴見和子を偲ぶ会で皇后と隣り合わせた石牟礼道子が、皇后宛に送った手紙がきっかけとなったものでした。その経緯は、高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子講談社で詳しく検証されています。(ただし、高山さんの本では「美智子皇后と鶴見〔和子〕のつながりはどのようなことかわからないが」とあっさり流していて、ズッコケました。そこ、大事なとこと違うんかい!)

ふたり 皇后美智子と石牟礼道子

ふたり 皇后美智子と石牟礼道子

 

水俣病患者資料館語り部の会会長である緒方正実さんの講話に耳を傾けた天皇は、緒方さんの顔をじっと見て、このように自ら言葉を発しました。

「ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方向に向かって進んでいけることを願っています」

news.kodansha.co.jp

天皇の言葉に出てくる「真実に生きる」とは、緒方正実さんの講話の内容を受けたものですが、これはもう般若波羅蜜の宣言ではありませんか!*1

島田裕巳さんの仰るように、天皇が「菩薩行」を志向しているのだとするならば、天皇がそれをはっきり自覚したのは、この水俣への旅だったのではないかと思うのです。菩薩として生きる決意を固めた天皇と皇后の面前にいたのは、大乗仏教の言葉を使うならば「代受苦の菩薩」とも言うべき人々だったのではないでしょうか?

教理学的にはあり得ないことなので、あえて文学的表現として言いますが、天皇に菩薩としての授記を与えたのは、人間の尊厳をかかげ闘い続けた彼ら「代受苦の菩薩たち」だったのです。

いまの天皇の父である昭和天皇の戦争責任、水俣病の惨禍を引き起こした公害企業チッソと皇室との深い人的関係などを思うならば、天皇と皇后の「菩薩行」が雲上から民衆に慈悲や救いの手を差し伸べる「衆生救済」という姿勢で実践できるものであり得ないのは明白でしょう。

ですから、象徴天皇の「菩薩行」とは、市井に生きる「代受苦の菩薩たち」への礼拝行(菩薩が菩薩を礼拝する)に他ならないのではないか、と調子に乗って拡大解釈したくなるのです。

◆妄想ヤバイ!

( ゚д゚)ハッ! ……あんまり妄想を拡げすぎると最近の柄谷行人みたいなあれな感じになるので、もう止めましょうね。自らを語ることを極端に制限された天皇について、あれこれ願望や妄想を投影するのは、なかなか罪深く危険なことです。

いずれにせよ、本書の大雑把な問題提起を呼び水として、近現代の天皇や皇室と仏教の関係を解明する研究者が現われることに期待したいと思います。というわけで、島田裕巳天皇は今でも仏教である』サンガ新書、大いに思考(妄想)が触発される新書本でした。読んで、それぞれ考えてみましょう。

 

追記:本書でも参考文献に挙げられていたと思うけど、『史淵』149号に載っている山口輝臣『天皇家の宗教を考える : 明治・大正・昭和』(pp. 21-47, 2012-03-09. 九州大学大学院人文科学研究院)は、近代化以降の皇室と仏教の関係を知る上で必読ですね。九州大学附属図書館HPからPDFを読めます。

天皇家の宗教を考える : 明治・大正・昭和 | 九大コレクション | 九州大学附属図書館

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

*1:もちろんパーリ仏教の十波羅蜜における真諦波羅蜜 Sacca pāramī のほうが相応しいと思いますけど、知名度が……

佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』新潮選書 ~知的探求を通じて仏教への愛(pema,prema)を育む~

佐々木閑さんと宮崎哲弥さんの対談新刊『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮社,新潮選書)を読みました。結論からいうと、たいへん読みどころの多い良書です。

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

宮哲さんが巻頭言をユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の引用からはじめているあたり、掴みはバッチリ。ちなみにハラリはヴィパッサナー瞑想の熱心な実践者です。仏教徒と公言しているわけではないようですが……。

本書でもっとも印象的だったのは、佐々木閑さんが仏教学者の藤本晃さんを名指しして「テーラワーダ歴史原理主義者」として強く批判していたことです。(165p仏教に輪廻は必要なのか,284p~295pテーラワーダ原理主義化/藤本晃氏の言説が含む問題点)

テーラワーダ仏教の「強信者」と言えるかも知れない僕も、藤本晃さんの最近の論調(初期仏典どころかスリランカの史書まで一言一句無批判に絶対視する姿勢)はちょっと無茶すぎるよなぁと思っていたので、批判自体は「そうだそうだ!もっとやれ~!」という感じで受け止めています。

もちろん藤本晃さんの主張が全部トンデモというわけではなく、仏教学の方法論に関する重要な論点も含んでいると思うので、佐々木閑さんとは論文の応酬や学会パネルなどでガチに四つに組んで論争してほしいものです。

全体的に見ると『ごまかさない仏教』は仏教書不作に思える今年に出たなかでは光ってる本だと思います。ただ、業報と輪廻について何としても拒絶したがるお二人のいつもの拘り(165p~)にはなんだかなぁ、という感想を禁じえません。(;^_^A

あと、四沙門果に関する議論(109p~)では、覚りの階梯と十結(五下分結と五上分結)との関係にまったく触れないまま珍説を弄んでいて、正直苦笑してしまいました。繰り返しますが、いくつかのミスリードを除けば、お二人の該博な知識知見と志の一端を垣間見れる概ね有意義で楽しい本だと思います。

宮崎哲弥さんがスマナサーラ長老の言葉を引きつつ哲学者・永井均さんの無常に関する「誤解」(というか難癖?)を一蹴しているくだりは鮮やかでしたし、橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『ゆかいな仏教』(サンガ新書)を公開処刑よろしく糾弾していたのも素晴らしかった。!(^^)! ほんと、どうしようもない本ですからね。わいの筆誅は以下のブログ記事にて。

naagita.hatenablog.com

藤本晃説との絡みでいうと、佐々木閑さんは同書で「廻向の導入こそが大乗仏教の根源」(221p)と言い切ってて、藤本さんの功徳廻向に関する新説を完全無視してますね。宮崎哲弥さんもツッコまない……本人読んだらここが一番ショックかも(笑)。

仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)

仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)

 

宮崎哲弥さんの発言でいちばんエモくてグッときたのは、274pの"なぜ「釈迦の殺人行為」は大乗にいたるまで伝承されてきたのか。"というくだりですね。ぜひ味わって読んでください。

上述のように佐々木閑さんは『ごまかさない仏教』終盤で激烈な藤本晃批判を展開していて、日本のテーラワーダ仏教があんな歴史原理主義的に傾くのは心配だ……と憂いてます。 それに対して宮崎哲弥さんが「スマナサーラ長老がそのような硬直的な態度を採ることはないと思います」とフォローしてるのも面白かったですね。

佐々木閑さんといえば、彼の新書本『日々是修行』について、2009年にブログで完璧な書評(当社比)をものしたことがありました。いまだったらもっとゆるふわに書くと思うけど、この頃は血気盛んだったからなぁ。ほんとに筆誅を加えるつもりで書きましたよ(笑)。

naagita.hatenablog.com

このブログ書評が何か影響を与えたのかどうかわかりませんが、その後、佐々木閑さんが現存のテーラワーダ仏教を指して小乗仏教という差別語・侮蔑語を用いることは無くなったようです。(全部の著作を読んだわけではないですが……)

佐々木閑さんに限らず、ほんの10年くらい前まではインド哲学仏教学の研究者が「小乗仏教」という明らかにマイナスの価値の入った差別語・侮蔑語を使っても看過されるという、非常に情けない状況があったんです。(現役研究者も関与してたので、学界内部では無かった歴史として忘れ去られるでしょう。)

なぜかと言えば、だれも文句を言わなかったからです。文句を言われるかもという発想すら無かったんです。東南アジアやスリランカ仏教徒は日本語など読まんだろうし、世界に冠たる経済大国で援助国の日本人様に楯突くこと言うはずない。ましてや日本人で小乗仏教を信じるバカなどいるはずないだろと。

だから延々と、小乗仏教と言い続けていたんです。そういう点では1970年代から東南アジアやスリランカに入っていった文化人類学者の研究者のほうが、よりフラットな眼差しでテーラワーダ仏教を紹介していたと思います。最近『上座仏教事典』に結実した学際的な研究の流れも、彼らの触発によるものが大きかったと思います。

上座仏教事典

上座仏教事典

 

これは見方を変えれば、大乗仏教優位説にすがりつく伝統宗学の情念が、より客観的・実証的・価値中立的なスタンスを求められるインド哲学仏教学の他分野にも流れ込んでいた、ということです。近代日本の仏教学も、いかに大乗仏教の正統性を学術面で裏付けるかという危機感によって形成されましたから。

でもね、そりゃしょうがない話ですよ。だってインド哲学仏教学やってる人たちは大半が日本仏教のお寺関係者ですから。佐々木閑さんだって、「僕は理系出身だから〜」とか言って畑違いを強調してるけど、ホントは真宗高田派のお坊さん(現役の住職)ですからね。生まれついての業界人やんけ!

佐々木閑さんの場合は実は「良心的」で、彼独自の初期仏教観(そもそも仏教は社会不適合者のための病院、サンガはニートの集いetc)に基づいて、「大乗世界の人たちから「小乗」と蔑まれてきた釈迦の仏教を、「その「小乗」という言葉ごと、名誉回復したい」という善意から(ほんとかね?)日本のクォリティペーパーを誇る朝日新聞紙面の連載でもって小乗仏教小乗仏教と書き続けたわけです。

でも、そんなの自分の学者としての良心のやましさと業界空気読みを折衷したどうでもいい曲芸言説ですよね? 当事者からすれば、「なに高尚ぶって滑ってるんだよ、さむいわ!」で終わりです。

それどころか、「あえて使っている」というエクスキューズを入れれば「小乗仏教」と言っていいんだ、という新たな差別語の固定化をも企図してたわけです。良心的といったけど、こう分析して見ると、佐々木閑さん超タチが悪いじゃん。野望打ち砕いといてよかったわぁ……って、うがった見方過ぎますね。

とにかく、誰かが声を上げなければ理不尽な差別はいつまでも残るし、ほっとけば専門家の手によって再生産され続けます。俗世の高みにいるように見える研究者もまた、属する業界の秩序・構造に組み込まれているから、業界のノリに冷水を浴びせてまで「差別はやめよう」という勇気は出てこないんです。

不公正に対して黙っていてはいけない、とは実は引っ込み思案だった(驚愕の事実!)某長老に対して師匠がかけた言葉だそうです。不公正に対して黙っていてはいけないし、黙ることをやめれば(やめ続ければ)、状況は確実に動くものです。小さな事例かも知れませんが、僕はそれを身をもって知りました。

昔話が長くなってしまいました。パーリ相応部大篇サラカーニ経のなかで釈尊は、仏道修行して解脱に至らなかったとしても、仏法への僅かな知的理解を得たり、またはブッダへの敬愛・愛情を抱いたりするだけで、死後は決して悪趣に堕ちることはない(あの世でも幸福になれる)と太鼓判を押しています。

その教えを踏まえれば、「仏・法・僧」の掌中をうろうろしつつ、知的探求を通じて仏教への愛(pema,prema)を育める本書を読むことの功徳は決して少なくないと思います。

というわけで、佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す 』新潮選書、おススメです!

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

中島岳志『親鸞と日本主義』がすごい!

中島岳志親鸞と日本主義』新潮選書
親鸞と日本主義 (新潮選書)

親鸞と日本主義 (新潮選書)

 

読了。これはすごい本だと思う。

仏教超国家主義の関係はもっぱら日蓮主義の系譜が問われてきたが、大学や論壇に苛烈な「思想戦」を仕掛け恐れられたのは浄土真宗の開祖、親鸞の教えに立脚した三井甲之や蓑田胸喜といった右翼知識人グループ(原理日本社)だった。序章「信仰と愛国の狭間で」と、1章 「『原理日本』という悪夢」では、中島本人がそれを知った時の衝撃を追体験できる。
3章「転向・回心・教誨」では、官憲に協力して共産主義者を次々と「転向」させた教誨師(真宗僧侶で構成)の活動に触れる。自分も外来宗教なのに、キリスト教共産主義など外来思想への防波堤を自認し、日本主義の権化となった仏教、とりわけ浄土教の魅力とはなんだったのだろうか?
5章「戦争と念仏――真宗大谷派の戦時教学」に引用される禍々しい教義に触れると、人間の……というより真宗の「宿業」の深さを感じてしまうな。浄土真宗という宗教運動の業の深さに、日本国そのものが呑み込まれてしまったかのようにさえ思える。(勿論、実際はそんな単純な話ではないが。)
戦後、真宗大谷派の宗務総長に収まった暁烏敏曰く、
夜は明けてをります。世は慈悲に満ちてをります。かういふ貴い世界に住んでをつて、何をごてごて云うてをりますか。何をいざこざ嘆いてをりますか。汝の高ぶりに気附け。汝の無自覚を恥ぢよ。そして偉大なる皇国の前に跪け。
天照大神様の御力の前に跪くこと以上に、まだえらい阿弥陀様といふものをかざつておるなら、そんなものは外国にいくがよい。
ヒトラー礼賛やホロコースト否定で国際的な非難を浴びている高須克弥さん(真宗大谷派僧侶)もビックリの発言だが、敗戦後に捨てられた戦時教学とは、かくも非仏教的なシロモノだった。
そんでもって大東亜戦争の惨敗で戦時教学が破綻した後、それを喧伝していた真宗人たちは自らの宗教活動の業深さを「人間一般の業深さ」にすり替えて、一億総懺悔で過去をリセットしちゃうのである。なんちゅうか、いろんな意味でついていけない。^^;
やはり親鸞に傾倒し文芸を通じた日本主義の啓蒙に従事した吉川英治(4章で詳述)が敗戦後「もう一行も書けない」と悲嘆した(実際は書き続けたんだが)ような、あるいは蓑田胸喜が自殺したような、わかりやすい凡夫の神経とは異質な、底なしの闇が、真宗人(末端信徒ではなくプロの人々)の精神性を支えているようにも思えるのである。
自己の言説を自ら裏切り続けることで、自らの宗教的境地が深まるかのような不思議な構造。しかし彼ら真宗人(プロ仏教者)は独りごちていたわけではなく、天皇陛下万歳と南無阿弥陀仏を同化させ、更に天皇の他に阿弥陀仏を立てる者は日本から去れ!と叫び、それが浄土真宗の極意だと喧伝した当事者だ。
一向一揆の昔から、彼らプロの真宗人たちは、末端の門徒を戦争に動員してきた側の存在だ。しかし彼らは末端の門徒たちに対して発言の責任を持たないし、感じない(彼らは生前、門徒への説明責任は一切果たさなかった)。阿弥陀仏の本願の前に極悪極愚なる自己を確認して「救済の確信」を深めるだけだ。
僕はその構造に戦慄するほどおぞましきものを感じるし、知識階層の「宿業」というものがあるとするならば、それを体現するのは彼ら真宗人であろうと思う。果たして阿弥陀如来は彼らを進んで済度の対象とするだろうか?
ここで僕は、大乗仏教の成り立ちにまで遡るある「暗さ」を思わざるを得ないのだ。
大乗仏教は自己の覚悟を措いてでも「衆生の救済」を果たすべきことを説く。しかし彼らを突き動かした心的衝動(サンカーラー)の正体は、自己の覚悟を放棄して他者救済を叫ぶことによって得られる「自己の救済」への渇望ではなかったのか? 大乗仏教の極致といえる浄土真宗の戦時教学において、 その心的衝動は剥き出しの形で露呈したのではなかろうか?
別に便乗して何かを述べたかったわけではなく、ずっと以前から感じていたモヤモヤが『親鸞と日本主義』を媒介にして初めて像を結んだように思う。
勿論、大乗仏教の一般的教理と、近代真宗教学という形でブースターをかまされた親鸞思想の間に遠大な距離があると承知している。もう少ししっかりしてした理路を探る思いつきに過ぎない。それでも、「万人の救い」を説く者の心裏に息づく「たった一人の救済」への渇望を彼らに嗅ぎ取ってしまったのだ。
終章「国体と他力――なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」で語られる、
多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想手構造の問題があった。(p282)
という一文は、本書のハイライトだろう。
この分析自体は阿満利麿の論考を踏まえているが、近代真宗教学を確立した俊英たちが(時局の圧力はあったにせよ)権力構造に完全に従属し、阿弥陀如来への信仰までを振り捨てて天皇制国家への同化解消を遂げた奇怪さおぞましさ不条理さを一定程度「わかりやすく」してくれる。
中島岳志親鸞と日本主義』新潮選書、仏教クラスタのみならず、ひろく人文書読みにおススメしたい刺激的な一冊だ。「仏教ブームと右傾化が同時的に進行する現代」(序章,p28)と中島は記すが、実は前世紀の昭和初期も「仏教ブームと右傾化が同時的に進行する」時代だった。
テーラワーダ仏教の日本伝道を通じて、十数年来その「仏教ブーム」に竿さしてきた僕は、「仏教ブームと右傾化が同時的に進行」した昭和初期の状況と現代を常に対照しつつ、過去の再現に抗うべく自分の振る舞い方を選んできた。中島岳志も似通った問題意識を持っているとを知れたのは本書の収穫だった。
 
………以下余談だけど、
"親鸞は「自分は真理を知っている」「自分は正しい」と言う人にめっぽう厳しく、「自分は真理を把握することなんてできない」「何が正しいかわからない」と悩み苦しむ人に、とびっきりやさしい。「自分だってよくわからばい」とささやき、庶民の素朴な嘆きに寄り添ってくれる。"p228
こういう親鸞像って、「何が正しいかわからない」という態度で知的誠実さを装い、差別と被差別、被害者と加害者、ファクトとフェイク、権力の非対称性など、明確に分別して論ずべき問題まで相対化し、どっちもどっちと冷笑するネット民とも非常に相性いいんだよね。現代の「本願ぼこり」と称すべきか。
 
そういうトラップを突破しながら、前に進まなくてはいけないと、僕は思っています。