佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』新潮選書 ~知的探求を通じて仏教への愛(pema,prema)を育む~

佐々木閑さんと宮崎哲弥さんの対談新刊『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』(新潮社,新潮選書)を読みました。結論からいうと、たいへん読みどころの多い良書です。

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

宮哲さんが巻頭言をユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の引用からはじめているあたり、掴みはバッチリ。ちなみにハラリはヴィパッサナー瞑想の熱心な実践者です。仏教徒と公言しているわけではないようですが……。

本書でもっとも印象的だったのは、佐々木閑さんが仏教学者の藤本晃さんを名指しして「テーラワーダ歴史原理主義者」として強く批判していたことです。(165p仏教に輪廻は必要なのか,284p~295pテーラワーダ原理主義化/藤本晃氏の言説が含む問題点)

テーラワーダ仏教の「強信者」と言えるかも知れない僕も、藤本晃さんの最近の論調(初期仏典どころかスリランカの史書まで一言一句無批判に絶対視する姿勢)はちょっと無茶すぎるよなぁと思っていたので、批判自体は「そうだそうだ!もっとやれ~!」という感じで受け止めています。

もちろん藤本晃さんの主張が全部トンデモというわけではなく、仏教学の方法論に関する重要な論点も含んでいると思うので、佐々木閑さんとは論文の応酬や学会パネルなどでガチに四つに組んで論争してほしいものです。

全体的に見ると『ごまかさない仏教』は仏教書不作に思える今年に出たなかでは光ってる本だと思います。ただ、業報と輪廻について何としても拒絶したがるお二人のいつもの拘り(165p~)にはなんだかなぁ、という感想を禁じえません。(;^_^A

あと、四沙門果に関する議論(109p~)では、覚りの階梯と十結(五下分結と五上分結)との関係にまったく触れないまま珍説を弄んでいて、正直苦笑してしまいました。繰り返しますが、いくつかのミスリードを除けば、お二人の該博な知識知見と志の一端を垣間見れる概ね有意義で楽しい本だと思います。

宮崎哲弥さんがスマナサーラ長老の言葉を引きつつ哲学者・永井均さんの無常に関する「誤解」(というか難癖?)を一蹴しているくだりは鮮やかでしたし、橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『ゆかいな仏教』(サンガ新書)を公開処刑よろしく糾弾していたのも素晴らしかった。!(^^)! ほんと、どうしようもない本ですからね。わいの筆誅は以下のブログ記事にて。

naagita.hatenablog.com

藤本晃説との絡みでいうと、佐々木閑さんは同書で「廻向の導入こそが大乗仏教の根源」(221p)と言い切ってて、藤本さんの功徳廻向に関する新説を完全無視してますね。宮崎哲弥さんもツッコまない……本人読んだらここが一番ショックかも(笑)。

仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)

仏教の正しい先祖供養: 功徳はなぜ廻向できるの? (サンガ新書)

 

宮崎哲弥さんの発言でいちばんエモくてグッときたのは、274pの"なぜ「釈迦の殺人行為」は大乗にいたるまで伝承されてきたのか。"というくだりですね。ぜひ味わって読んでください。

上述のように佐々木閑さんは『ごまかさない仏教』終盤で激烈な藤本晃批判を展開していて、日本のテーラワーダ仏教があんな歴史原理主義的に傾くのは心配だ……と憂いてます。 それに対して宮崎哲弥さんが「スマナサーラ長老がそのような硬直的な態度を採ることはないと思います」とフォローしてるのも面白かったですね。

佐々木閑さんといえば、彼の新書本『日々是修行』について、2009年にブログで完璧な書評(当社比)をものしたことがありました。いまだったらもっとゆるふわに書くと思うけど、この頃は血気盛んだったからなぁ。ほんとに筆誅を加えるつもりで書きましたよ(笑)。

naagita.hatenablog.com

このブログ書評が何か影響を与えたのかどうかわかりませんが、その後、佐々木閑さんが現存のテーラワーダ仏教を指して小乗仏教という差別語・侮蔑語を用いることは無くなったようです。(全部の著作を読んだわけではないですが……)

佐々木閑さんに限らず、ほんの10年くらい前まではインド哲学仏教学の研究者が「小乗仏教」という明らかにマイナスの価値の入った差別語・侮蔑語を使っても看過されるという、非常に情けない状況があったんです。(現役研究者も関与してたので、学界内部では無かった歴史として忘れ去られるでしょう。)

なぜかと言えば、だれも文句を言わなかったからです。文句を言われるかもという発想すら無かったんです。東南アジアやスリランカ仏教徒は日本語など読まんだろうし、世界に冠たる経済大国で援助国の日本人様に楯突くこと言うはずない。ましてや日本人で小乗仏教を信じるバカなどいるはずないだろと。

だから延々と、小乗仏教と言い続けていたんです。そういう点では1970年代から東南アジアやスリランカに入っていった文化人類学者の研究者のほうが、よりフラットな眼差しでテーラワーダ仏教を紹介していたと思います。最近『上座仏教事典』に結実した学際的な研究の流れも、彼らの触発によるものが大きかったと思います。

上座仏教事典

上座仏教事典

 

これは見方を変えれば、大乗仏教優位説にすがりつく伝統宗学の情念が、より客観的・実証的・価値中立的なスタンスを求められるインド哲学仏教学の他分野にも流れ込んでいた、ということです。近代日本の仏教学も、いかに大乗仏教の正統性を学術面で裏付けるかという危機感によって形成されましたから。

でもね、そりゃしょうがない話ですよ。だってインド哲学仏教学やってる人たちは大半が日本仏教のお寺関係者ですから。佐々木閑さんだって、「僕は理系出身だから〜」とか言って畑違いを強調してるけど、ホントは真宗高田派のお坊さん(現役の住職)ですからね。生まれついての業界人やんけ!

佐々木閑さんの場合は実は「良心的」で、彼独自の初期仏教観(そもそも仏教は社会不適合者のための病院、サンガはニートの集いetc)に基づいて、「大乗世界の人たちから「小乗」と蔑まれてきた釈迦の仏教を、「その「小乗」という言葉ごと、名誉回復したい」という善意から(ほんとかね?)日本のクォリティペーパーを誇る朝日新聞紙面の連載でもって小乗仏教小乗仏教と書き続けたわけです。

でも、そんなの自分の学者としての良心のやましさと業界空気読みを折衷したどうでもいい曲芸言説ですよね? 当事者からすれば、「なに高尚ぶって滑ってるんだよ、さむいわ!」で終わりです。

それどころか、「あえて使っている」というエクスキューズを入れれば「小乗仏教」と言っていいんだ、という新たな差別語の固定化をも企図してたわけです。良心的といったけど、こう分析して見ると、佐々木閑さん超タチが悪いじゃん。野望打ち砕いといてよかったわぁ……って、うがった見方過ぎますね。

とにかく、誰かが声を上げなければ理不尽な差別はいつまでも残るし、ほっとけば専門家の手によって再生産され続けます。俗世の高みにいるように見える研究者もまた、属する業界の秩序・構造に組み込まれているから、業界のノリに冷水を浴びせてまで「差別はやめよう」という勇気は出てこないんです。

不公正に対して黙っていてはいけない、とは実は引っ込み思案だった(驚愕の事実!)某長老に対して師匠がかけた言葉だそうです。不公正に対して黙っていてはいけないし、黙ることをやめれば(やめ続ければ)、状況は確実に動くものです。小さな事例かも知れませんが、僕はそれを身をもって知りました。

昔話が長くなってしまいました。パーリ相応部大篇サラカーニ経のなかで釈尊は、仏道修行して解脱に至らなかったとしても、仏法への僅かな知的理解を得たり、またはブッダへの敬愛・愛情を抱いたりするだけで、死後は決して悪趣に堕ちることはない(あの世でも幸福になれる)と太鼓判を押しています。

その教えを踏まえれば、「仏・法・僧」の掌中をうろうろしつつ、知的探求を通じて仏教への愛(pema,prema)を育める本書を読むことの功徳は決して少なくないと思います。

というわけで、佐々木閑×宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す 』新潮選書、おススメです!

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す (新潮選書)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

中島岳志『親鸞と日本主義』がすごい!

中島岳志親鸞と日本主義』新潮選書
親鸞と日本主義 (新潮選書)

親鸞と日本主義 (新潮選書)

 

読了。これはすごい本だと思う。

仏教超国家主義の関係はもっぱら日蓮主義の系譜が問われてきたが、大学や論壇に苛烈な「思想戦」を仕掛け恐れられたのは浄土真宗の開祖、親鸞の教えに立脚した三井甲之や蓑田胸喜といった右翼知識人グループ(原理日本社)だった。序章「信仰と愛国の狭間で」と、1章 「『原理日本』という悪夢」では、中島本人がそれを知った時の衝撃を追体験できる。
3章「転向・回心・教誨」では、官憲に協力して共産主義者を次々と「転向」させた教誨師(真宗僧侶で構成)の活動に触れる。自分も外来宗教なのに、キリスト教共産主義など外来思想への防波堤を自認し、日本主義の権化となった仏教、とりわけ浄土教の魅力とはなんだったのだろうか?
5章「戦争と念仏――真宗大谷派の戦時教学」に引用される禍々しい教義に触れると、人間の……というより真宗の「宿業」の深さを感じてしまうな。浄土真宗という宗教運動の業の深さに、日本国そのものが呑み込まれてしまったかのようにさえ思える。(勿論、実際はそんな単純な話ではないが。)
戦後、真宗大谷派の宗務総長に収まった暁烏敏曰く、
夜は明けてをります。世は慈悲に満ちてをります。かういふ貴い世界に住んでをつて、何をごてごて云うてをりますか。何をいざこざ嘆いてをりますか。汝の高ぶりに気附け。汝の無自覚を恥ぢよ。そして偉大なる皇国の前に跪け。
天照大神様の御力の前に跪くこと以上に、まだえらい阿弥陀様といふものをかざつておるなら、そんなものは外国にいくがよい。
ヒトラー礼賛やホロコースト否定で国際的な非難を浴びている高須克弥さん(真宗大谷派僧侶)もビックリの発言だが、敗戦後に捨てられた戦時教学とは、かくも非仏教的なシロモノだった。
そんでもって大東亜戦争の惨敗で戦時教学が破綻した後、それを喧伝していた真宗人たちは自らの宗教活動の業深さを「人間一般の業深さ」にすり替えて、一億総懺悔で過去をリセットしちゃうのである。なんちゅうか、いろんな意味でついていけない。^^;
やはり親鸞に傾倒し文芸を通じた日本主義の啓蒙に従事した吉川英治(4章で詳述)が敗戦後「もう一行も書けない」と悲嘆した(実際は書き続けたんだが)ような、あるいは蓑田胸喜が自殺したような、わかりやすい凡夫の神経とは異質な、底なしの闇が、真宗人(末端信徒ではなくプロの人々)の精神性を支えているようにも思えるのである。
自己の言説を自ら裏切り続けることで、自らの宗教的境地が深まるかのような不思議な構造。しかし彼ら真宗人(プロ仏教者)は独りごちていたわけではなく、天皇陛下万歳と南無阿弥陀仏を同化させ、更に天皇の他に阿弥陀仏を立てる者は日本から去れ!と叫び、それが浄土真宗の極意だと喧伝した当事者だ。
一向一揆の昔から、彼らプロの真宗人たちは、末端の門徒を戦争に動員してきた側の存在だ。しかし彼らは末端の門徒たちに対して発言の責任を持たないし、感じない(彼らは生前、門徒への説明責任は一切果たさなかった)。阿弥陀仏の本願の前に極悪極愚なる自己を確認して「救済の確信」を深めるだけだ。
僕はその構造に戦慄するほどおぞましきものを感じるし、知識階層の「宿業」というものがあるとするならば、それを体現するのは彼ら真宗人であろうと思う。果たして阿弥陀如来は彼らを進んで済度の対象とするだろうか?
ここで僕は、大乗仏教の成り立ちにまで遡るある「暗さ」を思わざるを得ないのだ。
大乗仏教は自己の覚悟を措いてでも「衆生の救済」を果たすべきことを説く。しかし彼らを突き動かした心的衝動(サンカーラー)の正体は、自己の覚悟を放棄して他者救済を叫ぶことによって得られる「自己の救済」への渇望ではなかったのか? 大乗仏教の極致といえる浄土真宗の戦時教学において、 その心的衝動は剥き出しの形で露呈したのではなかろうか?
別に便乗して何かを述べたかったわけではなく、ずっと以前から感じていたモヤモヤが『親鸞と日本主義』を媒介にして初めて像を結んだように思う。
勿論、大乗仏教の一般的教理と、近代真宗教学という形でブースターをかまされた親鸞思想の間に遠大な距離があると承知している。もう少ししっかりしてした理路を探る思いつきに過ぎない。それでも、「万人の救い」を説く者の心裏に息づく「たった一人の救済」への渇望を彼らに嗅ぎ取ってしまったのだ。
終章「国体と他力――なぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか」で語られる、
多くの親鸞主義者たちが、阿弥陀如来の「他力」を天皇の「大御心」に読み替えることで国体論を受容して行った背景には、浄土教の構造が国学を介して国体論へと継承されたという思想手構造の問題があった。(p282)
という一文は、本書のハイライトだろう。
この分析自体は阿満利麿の論考を踏まえているが、近代真宗教学を確立した俊英たちが(時局の圧力はあったにせよ)権力構造に完全に従属し、阿弥陀如来への信仰までを振り捨てて天皇制国家への同化解消を遂げた奇怪さおぞましさ不条理さを一定程度「わかりやすく」してくれる。
中島岳志親鸞と日本主義』新潮選書、仏教クラスタのみならず、ひろく人文書読みにおススメしたい刺激的な一冊だ。「仏教ブームと右傾化が同時的に進行する現代」(序章,p28)と中島は記すが、実は前世紀の昭和初期も「仏教ブームと右傾化が同時的に進行する」時代だった。
テーラワーダ仏教の日本伝道を通じて、十数年来その「仏教ブーム」に竿さしてきた僕は、「仏教ブームと右傾化が同時的に進行」した昭和初期の状況と現代を常に対照しつつ、過去の再現に抗うべく自分の振る舞い方を選んできた。中島岳志も似通った問題意識を持っているとを知れたのは本書の収穫だった。
 
………以下余談だけど、
"親鸞は「自分は真理を知っている」「自分は正しい」と言う人にめっぽう厳しく、「自分は真理を把握することなんてできない」「何が正しいかわからない」と悩み苦しむ人に、とびっきりやさしい。「自分だってよくわからばい」とささやき、庶民の素朴な嘆きに寄り添ってくれる。"p228
こういう親鸞像って、「何が正しいかわからない」という態度で知的誠実さを装い、差別と被差別、被害者と加害者、ファクトとフェイク、権力の非対称性など、明確に分別して論ずべき問題まで相対化し、どっちもどっちと冷笑するネット民とも非常に相性いいんだよね。現代の「本願ぼこり」と称すべきか。
 
そういうトラップを突破しながら、前に進まなくてはいけないと、僕は思っています。

『中外日報』2017/6/30号に「テーラワーダ仏教と日本(論 近代日本の宗教11)」を寄稿

宗教専門の老舗新聞『中外日報』2017/6/30号に「テーラワーダ仏教と日本(論 近代日本の宗教11)」を寄稿しました。拙著『大アジア思想活劇: 仏教が結んだ、もうひとつの近代史Kindle版のPRをしつつ、表題テーマについて概観した文章です。掲載先からお許しをいただいたので、全文をブログで公開します。

追記:中外日報さんのホームページにも記事が掲載されました。

www.chugainippoh.co.jp

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中外日報』論 近代日本の宗教11(2017/6/30号)

テーラワーダ仏教と日本

佐藤哲朗日本テーラワーダ仏教協会 編集局長)

 

このほど、拙著『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(二〇〇八、サンガ)を電子書籍化しました。同書は明治維新に伴う廃仏毀釈で大きな打撃を受けた仏教界が復興を模索する過程で、それまで「小乗仏教」と観念的に軽侮してきた南伝上座仏教テーラワーダ仏教)を奉じるスリランカ仏教復興運動と邂逅した歴史の細い糸を辿ったものです。電書版の編集過程で、改めて近代史における仏教国際交流の意義について考えさせられました。以下、いくつかのキーワードに沿って論じたいと思います。

アジアからの風、アメリカという権威

拙著では、二人の海外仏教者に焦点を当てました。一人はアメリカ出身のヘンリー・スティール・オルコット(1832-1907)、もう一人はスリランカ出身のアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)です。前者は神智学協会の創始者で、南アジアに渡ってスリランカ仏教の復興及び近代化を指導しました。後者はそのオルコットに見出された仏教活動家です。明治20年代初頭、白人の仏教指導者であるオルコットを日本に招聘する運動が京都仏教徒グループで盛り上がりました。仏教が欧米のキリスト教に劣らぬ宗教であることを証明するために。明治22年(1889)に実現したオルコット来日は一時的な仏教ブームを巻き起こします。随行のダルマパーラは高楠順次郎(1866-1945)らと友情を結び、生涯で四回来日して仏教徒の連帯と反植民地主義を訴え続けました。「瀕死」の日本仏教に新たな活力を与えたのは、アメリカ人オルコットとその従者たるアジアの仏教者であり、彼らを触媒として南北に離散した仏教世界は一つに結びつけられたのです。それから50有余年のち、第二次世界大戦で米国を盟主とする連合国に大敗した日本はアメリカの下流域国家として国際秩序に組み込まれ、米国は物心両面で権威の源泉となりました。近年の日本では、テーラワーダ仏教圏の修道体系がアメリカ経由の「マインドフルネス瞑想」として権威づけられ広く受容されています。これは明治22年、京都の知恩院パーリ語三帰依五戒文を唱えて仏教界に衝撃を与えたオルコット来日から、仏教史の大きな流れで繋がっているように思えます。

マインドフルネスと「念」解釈の変容

戦後の1950年代、ミャンマーで瞑想の大家として名高いマハーシ長老(1904-1982)のもとに日本曹洞宗の青年僧侶たちが参じ、ヴィパッサナー瞑想を学びました。しかし、彼らが日本でその教えを紹介することはありませんでした。当時、日本の仏教者はテーラワーダ仏教を「戒律仏教」と見なす認知バイアスに囚われており、瞑想実践への関心は皆無に等しかったのです。日本でいわゆるヴィパッサナー瞑想(観の実践)が広まったのは、主に一九九〇年代です。指導者はスリランカミャンマー出身の僧侶、あるいは当該国で修行を積んだ在家者でした。それが二十一世紀になってから、アメリカのマインドフルネス瞑想ブームにのって一般化したのです。前述のように、戦後日本はアメリカの下流域国家であり、スピリチュアルな権威もまた米国のお墨付きがものを言います。その米国仏教には、1893年のシカゴ宗教大会以来、本格的に進出した日本の禅仏教関係者も大きな影響を与えました。なお、マインドフルネスは仏教用語「念(サティ)」の英訳ですが、このマインドフルネス及びアウェアネスからの重訳語である「気づき」が、伝統的な「念」解釈にも影響を与えています。従来、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつき難い単語に訳されていました。テーラワーダ仏教のサティ概念が(英語経由で)移入されたことで、仏道実践の要諦たる「正念」の実践が、「気づき」なる日常語とともに一気に普及したのです。

仏教ナショナリズム

ダルマパーラは全世界の仏教徒にインド・ブッダガヤ大菩提寺の奪還闘争(この運動は日本からインドに帰化した佐々井秀嶺師に継承され、一定の成果をあげた)を呼びかけた汎仏教主義者であるとともに、仏教徒が多数派をしめるシンハラ民族に依拠したシンハラ仏教ナショナリズムの祖でもあります。*12009年に終結したスリランカ内戦は、仏教徒シンハラ民族とヒンドゥー教徒タミル民族の対立として報じられました。最近では、ミャンマー仏教徒によるイスラム教徒ロヒンギャ民族の迫害を告発する報道も頻繁に目にします。現在、仏教ナショナリズムの問題がテーラワーダ仏教圏で頻発しているのは事実です。三宝帰依を天皇制国家への絶対的献身へとすり替えた黒歴史は日本仏教に大きな傷を残しましたが、スリランカにせよミャンマーにせよ仏教徒(および仏教を奉じる民族)は多数派であっても全体ではあり得ません。宗教的ナショナリズムを貫徹すれば、その他の少数派グループは論理的帰結として排除・殲滅に追い込まれるのです。上座仏教圏の宗教ナショナリズムは、仏教を含む諸宗教が天皇制カルトへの同化を強いられた日本の前例とは異なる毒性を胚胎しています。一切衆生の幸福を願う世界の仏教者は、誰もが脛に傷を持つ自覚のもと、宗教ナショナリズムの克服に向けて尽力すべきでしょう。

日本人の仏教となったテーラワーダ仏教

いわゆる近代仏教史の範疇では、日本におけるテーラワーダ仏教移植の試みはいったん潰えています。真言宗の釈興然(1849-1924)は、明治23年(1890)に留学先のスリランカで具足戒を受けて比丘となり、帰国後は外護者を得て日本人留学僧をスリランカに送り出して日本人比丘サンガ設立を期したが挫折しました。興然の挫折からほぼ100年を経た現代、数十名規模のテーラワーダ仏教比丘が日本に滞在しています。居留民コミュニティに依拠する外国人僧侶、海外で出家後に帰国した日本人比丘が大多数ですが、日本国内に設定された戒壇で受戒した日本人比丘もいます。実質上、日本にもテーラワーダ仏教サンガが成立していると言えるでしょう。彼らを支える裾野として、テーラワーダ仏教に帰依あるいは強いシンパシーを持つ日本人も万単位で存在すると思われます。テーラワーダ比丘による法話やパーリ仏典に関する日本語の出版やネット情報も、既成仏教を凌駕する勢いです。この潮流が逆転することは、もうないでしょう。日本でテーラワーダ仏教が受容された遠因に、増谷文雄、中村元などの書籍を通じて普及した「原始仏教」ブランドに合致したことが挙げられるでしょう。近代的「原始仏教」イメージに由来する合理性の強調と、アメリカとアジアの合作であるマインドフルネス実践のセットは、テーラワーダ仏教をスマートな非宗教的な実践体系として日本人に受容させました。とはいえ伝統的な宗学で再生産された「小乗仏教」への偏見も根強く、日本におけるテーラワーダ仏教の受容には、常にプラスとマイナスの鬩ぎあいがありました。明治の開国以来かなりの時間を要しましたが、ここ十年ほどで、テーラワーダ仏教は移民コミュニティの仏教から「日本人の仏教」に成長したと言えるでしょう。その一方で、東南アジアやスリランカ仏教に触れた人々の中には、仏教徒の大多数が瞑想に関心を持たず、祭礼や布施儀式を中心としている実態に困惑する向きもあります。これは、アメリカやヨーロッパで禅堂に通い、いざ「仏教国日本」を訪ねて激しいギャップに驚く欧米人の感覚に近いかもしれません。これから日本におけるテーラワーダ仏教の変容を参与観察する上で、近代仏教史研究の成果への目配せは欠かせないと痛感しています。皆さまも動態としての仏教世界を見通す一つの視座として、「テーラワーダ仏教と日本」の行く末に注目してほしいと願っています。

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【写真】オルコット日本出発式の記念写真。仏教世界が一体化した近代を象徴している。明治22年(1889)1月コロンボで撮影。出典:the BUDDHIST and the Theosophical Movement 1873-1992(the Maha Bodhi Society of India)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

*1:アナガーリカ・ダルマパーラの言説と行動には、普遍主義的な仏教ミッショナリー、仏教アジア主義者、シンハラ仏教ナショナリスト、という三つのレイヤーがある。それについて触れておいた方が良かったなと後で気づいた。(^^;

大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史 Kindle版が出ました

このたび、拙著『大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(サンガ,2008)の電子書籍版が刊行されました。版元の方針で、AmazonKindleのみの配信となっています。

明治から昭和を貫く一筋の道――近代仏教
教談師・野口復堂、神智学協会・オルコット大佐、スリランカ仏教徒ダルマパーラ、そして田中智学などなど、 十九世紀から二十世紀の正史、秘史を彩る人物たちがアジアを股にかけ疾駆する近代仏教絵巻。
知られざる歴史を解き明かした必読書!
 
「少しく鳥瞰するならば十九世紀後半、近代日本の覚醒と時を同じくして、インドを中心とした南アジアでは、貶められてきた既存の精神文化を取り戻すべく、仏教ヒンドゥー教などの宗教復興運動が沸き起こりつつあった。その潮流はアジアを侵食する欧米の植民地主義への抵抗のゆりかごとなり、のちに先鋭的なナショナリズム運動へと展開してゆく。(中略)「日本仏教の近代史」を、その潮流のなかに位置づけたとき、いったい何が見えてくるだろうか。」(本文より)
 
大アジア思想活劇: 仏教が結んだ、もうひとつの近代史
 

電書化にあたって最近の近代仏教史研究に関する成果を概観した「電書版あとがき」を加筆しました。ネットで公開されている論文やレポートを含め、ちょっとした「最新版:近代仏教史ブックガイド」としても活用していただけると思います。

さらに、1章「オルコット大佐来日まで」,6章「インド洋の「仏教国」スリランカ」,17章「ミッションの船出・野口復堂の凱旋帰国まで」,18章「釈興然 日本に上座部仏教を伝えた留学僧(上)」19章「釈興然 日本に上座部仏教を伝えた留学僧(下)」,26章「フォンデス もう一人の白人仏教徒」には、【電書版追記】をしました。

追記を施したのは主に明治期の記述に関してですが、それだけ学術的な研究が進んだということですね。その他、いくつかの本文中の誤字や事実誤認を修正しています。書籍版を購入済みの方で、電書版あとがき&追記を読みたいという方がいらっしゃいましたら、PDFファイルを進呈します。メールかTwitter,FB等でご一報ください。

本書の核となる大学卒業論文(いまは亡き東洋大学の印度哲学科)の構想を練り始めたのは1993年の夏頃だったと記憶してます。フリーランスで暇こいてた時の再調査をへて配信したメルマガ「大アジア思想活劇~仏教と近代~」第一号が1999年6月19日。オンデマンド版「オンブック:『大アジア思想活劇』」を刊行したのが2006年7月。サンガから単行本したのが2008年9月。もう四半世紀にもわたるプロジェクトも、そろそろ本当に一区切りという感じです。

大アジア思想活劇というタイトル自体、まぐまぐ!の規約が宗教色を出したものはご法度だったための苦肉の策だったわけですが(最初期のタイトルは《大アジア思想活劇 111年前のインド旅行より》だった)、幸か不幸か「アジ活」との愛称で呼ばれるようになったので、単行本化の際もそのまま使って今に至ります。

電書化によって、バカ高かった(これもサンガの島影社長から、ハードカバーか並製かどっちにする?と訊かれて「じゃぁ、ハードカバーで……」と見栄を張った報い)価格も下げられたし、KindleUnlimitedに入ったので読み放題で手軽に読んでもらえるし……書き手としてはいいことづくめでした。つぎはぎだらけで無駄にエモい本書をきっかけにして、近代仏教史という迷宮に興味を持ってくれるかたが一人でも増えればいいなと願っています。

最後に、大アジア思想活劇の節目節目で適切な助言をくださった吉永進一先生(舞鶴工業専門学校)はじめ、各界「アジ活サポーター」の皆様にこころより感謝もうしあげます。ありがとうございました!

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

おまけ:

大アジア思想活劇: 仏教が結んだ、もうひとつの近代史

大アジア思想活劇――仏教が結んだ、もうひとつの近代史 Kindle版総目次

はじめの口上
明治二十一(一八八八)年の天竺武勇談/近代仏教史の発見白人ブディストと講釈師と「佛教復興」アナガーリカ・ダルマパーラと日本近代アジアを貫くカルマ仏教という窓を通じて

第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行

1 オルコット大佐来日まで
キリスト教の大攻勢白人仏教徒からの手紙『佛教問答』の翻訳出版【電書版追記】

2 日本仏教明治維新
近世仏教の姿廃仏毀釈の惨状仏教再評価のジレンマ世界のなかの日本仏教

3 オルコット招聘運動顛末
オルコット招聘運動と平井金三オルコット来ないなら寄付金返せ義兄金三の窮地に復堂起つ

4 平井金三と野口復堂
平井金三の生い立ちアメリカでの仏教講演・ユニテリアン・道会への参加日本語はアーリア系と主張心霊研究のパイオニア平井金三の宗教観野口復堂の生い立ちインド旅行・万国宗教大会出席教談の誕生教談全盛時代晩年の野口復堂野口復堂の宗教観

5 神智学協会インドへ向かう
スリランカ仏教の恩人──その意外な素顔ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐スピリチュアリズムの時代運命の出会いラマ僧院の理想主義者『ヴェールを脱いだイシス』神智学協会インドへ!

6 インド洋の「仏教国」スリランカ
光り輝く島インド文化圏への窓シンハラ人とタミル人仏教ナショナリズム仏教国」の危機【電書版追記】

7 パーナドゥラの論戦
パーナドゥラで何が起きたのか?論争の行方グナーナンダの勝利神智学徒からの手紙

8 白い仏教徒の闘い
神智学協会インド上陸アーリア・サマージとの会見仏教徒となった神智学徒オカルティストの仏教理解アディヤールへの本部移転セイロン仏教の救世主ウェサックの祝日化・仏教旗の制定プロテスタント仏教

9 「ランカーの獅子」の誕生
その生い立ち少年時代の原風景ミッションスクールでの葛藤神智学との出会いアディヤールヘの旅オカルトからパーリ語

10 ダヴィッドがダルマパーラを名乗るまで
ブラヴァツキー夫人のインド追放ブラヴァツキー夫人、ロンドンに死す仏教からメシア信仰へ──神智学協会の「変質」スリランカ奥地への旅シンハラ・ナショナリズムの目覚め

11 野口復堂 コロンボでの出会い
コロンボ上陸までダルマパーラとの出会い神智学協会の客人としてアフマド・アラービーとの会見

12 野口復堂 セイロン珍談集
スマンガラ大長老との会見コロンボで出会った日本人僧侶スリランカ仏教のあらましスリランカカースト上座部仏教の強度スポーテーの戒律珍問答ランチタイムの椰子問答変な仏像宇源・源智の観音ご利益コント

13 野口復堂 ついにインド上陸
南の島の天長節ダルマパーラとともにインドへ発つ夢想兵衛が栄華の夢か──トゥティコリンの熱狂一路アディヤールへ

14 明治日印交流史
島地黙雷の欧州歴訪とインド上陸北畠道龍のブッダガヤ巡礼インド公式訪問第一号 多田元吉お雇い外人モレルについて外国人婿養子第一号になったインド人

第Ⅱ部 オルコット大菩薩の日本ツアー

15 マドラス寄席の長名話
トゥティコリンからマドラスマドラス改名とタミル・ナショナリズムについてついにオルコットとまみえるオルコットの牛車インドで落語「長名話」を披露インド随一の梵語学者を梵語で泣かす「長名話」にマドラス中が騒然

16 長名話の縁起
笑福亭 梅香 バッシヤチャリヤ長名話の系譜桂米朝と長名話ラニの由縁と法華経『陀羅尼品』について長名話の盛衰に関する考察スペシャル・デレゲート野口復堂

17 ミッションの船出・野口復堂の凱旋帰国まで
分断されたインド社会百六歳の老翁との対話パッチャパス・ホールでの大演説野口復堂は日印交流の先駆け南北仏教徒を結んだミッションスマンガラ大長老の公式書簡ついに凱旋帰国【電書版追記】

18 釈興然 日本に上座部仏教を伝えた留学僧(上)
日本スリランカ仏教交流の始まり──釈雲照の祈願/釈興然をセイロンに導いた人々/森鴎外より漢詩を送られる/日本人初の上座部仏教僧侶の誕生/【電書版追記】

19 釈興然 日本に上座部仏教を伝えた留学僧(下)
林董と明治仏教/日本の上座部仏教教団設立へ/日本は「大乗相応の地」か/河口彗海をスカウトする/「小乗仏教」を信じるということ/興然と宗演──セイロン留学僧の対照的な生きざま/タイ王室に招かれる──晩年/菩提樹の浮き彫り──釈迦牟尼ヘの追慕/墓碑/【電書版追記】

20 「十九世紀の菩薩」オルコット日本来訪(上)
オルコットの上陸日本仏教界の大歓迎オルコット 先祖に会わす顔がない知恩院での最初の演説──ペリー総督の再来管長会議で仏教統一を説くオルコットの日本行脚

21 「十九世紀の菩薩」オルコット日本来訪(下)
オルコットの上京日本仏教への苦言『反省会』のネットワーク『海外仏教事情』と高楠順次郎

22 病床のダルマパーラ
ダルマパーラの入院オルコットの霊能力日本人の熱心な称賛者英語文献を通じた「伝統」との再会仏教復興は民族独立ヘの道

23 オルコット来日がもたらしたもの
オルコット帰国と日本人留学僧渡印南北仏教を結んだ功労者オルコット・ブームへの警戒お雇い外人ベルツの見たオルコット川合清丸とオルコットの『論争』国粋主義仏教普遍への窓としての仏教忘れられた「救世主」

24 ブッダガヤ復興運動の開始
この地に留まれ、そしてこの聖地に奉仕せよブッダガヤと神権領主マハンタブラヴァツキーの訃報──ひるがえる仏教日本でも燃え上がった仏蹟復興運動『国際仏教会議』の開催ブッダガヤに「日本の野望」を見た植民地当局

25 オルコット再来日・蜜月の終わり
オルコットの日本再訪
十四ヶ条の信仰条規国際仏教徒連盟の設立を目指す神智学協会の内紛──覚醒と憎悪のネットワーク日本で拒絶された「仏教十字軍」神智学は仏教なのか? 揺れ動いた日本仏教

26 フォンデス もう一人の白人仏教徒
神智学協会と日本仏教を断ち切った男/日本仏教の代弁者/「海外宣教会ロンドン支部」を設立──神智学批判を展開/ダルマパーラの苦言/高楠順次郎の英国留学/高楠とフォンデスの交流/神智学をめぐるカオス/その後のフォンデス/【電書版追記】

第Ⅲ部 ランカーの獅子 ダルマパーラと日本

27 シカゴ万国宗教大会 仏教アメリカ東漸
「ランカーの獅子」カルカッタに拠る『大菩提雑誌(The Maha Bodhi Journal)』の創刊シカゴ万国宗教大会テーラワーダ仏教の代表として万国宗教大会と日本仏教アメリカ「初転法輪」の誓いオセロとキリスト宗教面での国威掲揚

28 ダルマパーラ二度目の来日
フォスター夫人との出会い二度目の来日──日印交流を訴える日本仏教徒からの贈り物足早の帰国ブッダガヤ復興運動への疑念土宜法龍のレポートより幻の仏教釈雲照の珍談牛を食う奴は手を挙げろ!

29 「日本の仏像」インドで大暴れの巻
ブッダガヤ奪還の切り札ブッダガヤへ帰った日本の仏像マハンタの暴行仏像の移転命令 日本仏教徒の怒り日印のかすがいだった阿弥陀薄れていった興奮カリスマの誕生

30 大拙・慧海・ダルマパーラ
近代日本仏教を代表する巨人鈴木大拙の生い立ち河口慧海の生い立ち三会寺での出会いと別れ大拙の渡米とダルマパーララサールでの書生暮らし鈴木大拙とダルマパーラ、アメリカでの交流河口慧海とダルマパーラ、ブッダガヤの出会い

31 ダルマパーラ一九〇二年の来日
アメリカでの布教活動インド大飢饉救援と日本の「骨騒動」神智学協会との訣別セイロンでの活動インド大旅行三回目の来日──活動仏教の提唱日英同盟と日印協会の設立

32 ダルマパーラと田中智学の会見(上)
二人の「獅子」の出会い田中智学とはいかなる人か?田中智学の活動ダルマパーラと智学の出会い要山師子王文庫での会談小町霊跡でのやりとり対鶴館における談話──日蓮伝記と英訳法華経対鶴館における談話──天竺に仏法なし対鶴館における談話──皇室の信仰・インドの虐政

33 ダルマパーラと田中智学の会見(中)
対鶴館における談話──ダルマパーラの「悪評」対鶴館における談話──日蓮宗の海外布教を促す対鶴館における談話──樗牛との別れ

34 ダルマパーラと田中智学の会見(下)
瀧口での談話──「予は比丘にあらず、優婆塞にあらず」瀧口での談話──仏教信仰と実践をめぐる智学との「論争」二人の別れと後日談日露戦争と「人種闘争の世紀」の幕開け岡倉天心の渡印について

35 血の轍
シンハラ仏教ナショナリズムの誕生アーリア人種」の痕跡を求めて文明と血脈四たび「日出づる国」へ

36 冷遇された最後の来日
ダルマパーラへの冷遇仏教運動という空虚印度の志士ダルマパーラ汎アーリア主義の叫び『道会』での講演録革命の坩堝・試練の道へ

37 その後のダルマパーラ
セイロン暴動日英同盟下のインド支援一九一五年セイロン暴動の背景について晩年──サールナートに拠るダルマパーラの死

38 サールナート寺院壁画と野生司香雪
インドからの呼びかけ詩聖タゴールの激励サールナートでの画業ダルマパーラとの衝突相次ぐ外護者の死成就の墨跡

39 ひとつになった仏教世界(上)
仏教ルネッサンスの時代『海外仏教事情』誌における南北仏教対話大東亜共栄圏と日本仏教・ひとつの事例クリスマス・ハンフレーズと「仏教の十二原理」

40 ひとつになった仏教世界(下)
世界仏教徒連盟会議とサンフランシスコ会仏教伝来から千四百年目の「仏教世界の連合(ユナイテッド・ブッディスト・ワールド)」パール博士とWFB大会広島を癒した仏舎利仏教国日本」の再建とアジア仏教徒の受難

41 仏教とアジア近代史再考
日本とスリランカ・それぞれの近代仏教ダルマパーラの日本礼賛と「アーリア主義」日本仏教への挑発者近代仏教史という問い私たちは「仏教国日本」を生きている

おわりに 広島の二葉山平和塔をめぐって
二葉山平和塔の落成式広島から消えた仏舎利世界仏教徒の事業となった仏舎利塔建設藤井日達の二葉山仏舎利塔計画迷走する比治山仏舎利塔計画広島を去った仏舎利

あとがき

電書版あとがき

参考文献

年表

『60分でわかる!仏教書ガイド』に触発されて……こんな仏教書もどうでしょう?

友人の星飛雄馬さん(作家&編集者)が新刊『60分でわかる!仏教書ガイド』Kindle版,Evolving を上梓されました。

60分でわかる!仏教書ガイド

60分でわかる!仏教書ガイド

 

仏教入門書をはじめ、瞑想実践書から三蔵経典まで仏教を学びたいすべての人へ向けた仏教書ガイドです!
自分の役に立つ、自分に合った仏教書を見つけることができるでしょう!

(まえがき より)
 職業柄か、よく「仏教について知りたいのですが、まず最初の一冊にはどれを読んだらいいですか?」「仏教の瞑想について書かれた本で、おすすめのものはありますか?」といった質問を受けることがある。
 そのような時、簡単に返答をするのは容易ではない。なぜなら、質問者の仏教への理解度に応じておすすめの入門書といったものは変わってくるからである。なおかつ、仏教は現在世界中に広まっており、おすすめの瞑想の本と言われても、どのような宗派の仏教かによっても異なるからである。
 本書はそうした、「自分にとって参考になる仏教書を見つけたい」と思っている読者のニーズに応えるために書かれたものである。
 まず、第一章の「仏教概論」では、「入門編」と「中級者向け」の二つのレベルに分け、仏教を学ぶ上での基本的な知識が学べる本をリストアップした。
 第二章から第九章は、それぞれ世界の地域別に分け、それらのエリアで名著とされている仏教書を紹介した。
 第十章はテーラワーダ仏教聖典とされる三蔵経典の翻訳書、第十一章は仏教史の本、そして第十二章は仏教辞典と、より深く仏教を学びたいと思ったときに座右にあると心強い本を選んだ。〔中略〕
 本書が、仏道修行をする方々にとって、少しでも役に立つことを願う。  

 という意欲作でして、取り上げられている本のタイトルは以下のとおり。

目次
はじめに
第一章 仏教概論
入門編
 アルボムッレ・スマナサーラ、イケダハヤト『仏教は宗教ではない』
 プラユキ・ナラテボー、イケダハヤト、ヒビノケイコ『自由になるトレーニング』
 魚川祐司『だから仏教は面白い!』
 アルボムッレ・スマナサーラ『仕事でいちばん大切なこと』
中級者向け
 佐々木閑『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』
 吉村均、三木悟、岩井昌悟『現代仏教塾I』
 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』
 藤本晃『悟りの4つのステージ』
 香山リカ『マインドフルネス最前線』
第二章 タイ仏教
 プラユキ・ナラテボー『「気づきの瞑想」を生きる』
 プラユキ・ナラテボー『苦しまなくて、いいんだよ。』
 プラユキ・ナラテボー『仕事に効く!仏教マネジメント』
 プラユキ・ナラテボー『自由に生きる』
 プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』
 カンポン・トーンブンヌム『「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方』
 パイサーン・ウィサーロ『心が自由になる、初期仏教30の説法』
 アーチャン・チャー『[増補版]手放す生き方』
 アーチャン・チャー『無常の教え』
 アチャン・チャー『アチャン・チャー法話集 第一巻 戒律』
 ブッダダーサ比丘『呼吸によるマインドフルネス』
 ポー・オー・パユットー『テーラワーダ仏教の実践』
 ポー・オー・パユットー『仏法の思考と実践』
 ポー・オー・パユットー『仏法』
第三章 ミャンマー仏教
 天野和公『ミャンマーで尼になりました』
 西澤卓美『仏教先進国ミャンマーのマインドフルネス』
 西澤卓美『いろいろ悩みがあったので、西澤さんに訊いてみた。』
 ウ・ジョーティカ『ゆるす 読むだけで心が晴れる仏教法話』
 ウ・ジョーティカ『自由への旅 「マインドフルネス瞑想」実践講義』
 ウィリアム・ハート『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』
 マハーシ・サヤドー『ヴィパッサナー瞑想
 マハーシ長老『ミャンマーの瞑想 ウィパッサナー観法』
 サヤドー・ヤウェイヌエ『慈しみの思考』
第四章 スリランカ仏教
 バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ『マインドフルネス』
 バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ『マインドフルネスを越えて』
 バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ『8マインドフル・ステップス』
 アルボムッレ・スマナサーラブッダの聖地』
第五章 ベトナム仏教
 ティク・ナット・ハン『ブッダの〈気づき〉の瞑想』
 ティク・ナット・ハン『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』
第六章 アメリカ仏教
 ラリー・ローゼンバーグ『呼吸による癒し』
第七章 チベット仏教
『サンガジャパンVol.24』
 ツルティム・ケサン、正木晃『チベット密教
 中沢新一チベットの先生』
第八章 中国仏教
 柳田聖山、梅原猛『無の探求「中国禅」』
 小川隆『『臨済録』 禅の語録のことばと思想』
第九章 日本仏教
 ネルケ無方『迷える者の禅修行』
 角田泰隆『道元入門』
 角田泰隆『坐禅ひとすじ』
 横尾忠則坐禅は心の安楽死
 井上義衍『禅 もう迷うことはない!』
 井上義衍『禅話プロローグ』
 井上貫道『井上貫道老師提唱録』
 原田雪溪『宝鏡三昧普説』
 川上雪担『雪担老師語録』
 釈徹宗法然親鸞一遍』
第十章 三蔵経典
経蔵(Sutta-piṭaka)
長部(Dīgha-nikāya)
 片山一良訳『長部(ディーガニカーヤ)』
 アルボムッレ・スマナサーラ『沙門果経』
 アルボムッレ・スマナサーラ『成功する生き方 「シガーラ教誡経」の実践』
中部(Majjhima-nikāya)
 片山一良訳『中部(マッジマニカーヤ)』
相応部(Saṃyutta-nikāya)
 片山一良訳『相応部(サンユッタニカーヤ)』
小部(Khuddaka-nikāya)
 正田大観訳『小部経典』
 アルボムッレ・スマナサーラ『心に怒りの火をつけない』
 アルボムッレ・スマナサーラブッダの「慈しみ」は愛を超える』
論蔵(Abhidhamma-piṭaka)
 正田大観訳『清浄道論』
 アルボムッレ・スマナサーラ、藤本晃『ブッダの実践心理学』
第十一章 仏教史
 宮元啓一『わかる仏教史』
 平川彰『インド仏教史』
 小川隆『禅思想史講義』
 末木文美士『日本仏教史』
 佐藤哲朗『大アジア思想活劇』
『別冊サンガジャパン1 仏教瞑想ガイドブック』
第十二章 仏教辞典
 ポー・オー・パユットー『ポー・オー・パユットー仏教辞典(仏法篇)』
『別冊サンガジャパン2 タイ・ミャンマー人物名鑑』
あとがき

おもわず赤字で表記してしまいましたが、拙著『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』も入っています。あと、僕が編集に関わった本も太字にしてあります。(^^♪

第1章「仏教概論」がすべてテーラワーダ仏教系,初期仏教研究系で占められており、第2章以降の各国編もなんとタイ、ミャンマースリランカテーラワーダ仏教の国がつづいて、ベトナム、アメリカ、チベットと来て、ようやく中国、日本に入ります。

いまどきは、仏教への入り方ってこうなんですよ!という著者の強いメッセージ・思想的立ち位置を感じさせる並びですね。Kindleで読める本が多く選ばれていることも特徴ですね。

もちろん項目ごとの濃淡は激しいので、足りない点をあげつらうことは簡単かもしれません。でも、テーラワーダと曹洞禅での修行体験を持つ著者の来歴を踏まえるならば、しっかり体重のかかった、まこと誠実な選書だとわかるはずです。

う~ん、これいい企画だなぁ。

ちょっと触発されてしまったので、以下、星さんの目次立てに合わせて、これも如何でしょうか?という本を補足してみました。

  • 第一章 仏教概論

仏教百話 (ちくま文庫)

仏教百話 (ちくま文庫)

 

初期仏教経典のエピソードから精選された100話のショートエッセイ集。すぐれた文学者でもあった増谷文雄氏の力量を見せつけられるような文句なしの名著です。何度読んでも心を打たれます。仏教を好きになるか否かに関係なく、本書を読めば「お釈迦様のファンになる」ことは請け合いです。

総図解 よくわかる 仏教

総図解 よくわかる 仏教

 

わりと軽めですが、とりあえず「仏教のことをざっと知りたい」レベルの導入本としてはお勧めできる内容です。目次は、

1 ブッダの生涯と仏教の世界史
2 仏教を知るキーワード
3 日本仏教の歴史と宗派
4 お経のプロフィール
5 仏尊と仏像の世界
6 仏教のしきたりと文化

僕が担当した「仏教を知るキーワード」は、以下noteページで公開しているので、よろしければ読んでみてください。

note.mu

明解 仏教入門

明解 仏教入門

 

最近(といってもここ20年くらいのスパンですが)刊行された中級レベルの仏教概説書のなかでは、もっとも「筋がいい」一冊と思います。目次は以下のとおり。

第1章 仏教のめざすもの
第2章 苦の発生の構造、三道―輪廻のメカニズム
第3章 智慧の獲得構造、三学―悟りへのシステム
第4章 仏教の基本姿勢と釈尊の教法
第5章 四諦―仏教の教えの集約
第6章 大乗仏教の修行―六波羅
第7章 仏教の哲学―縁起と空
第8章 三法印

現存する上座部仏教大乗仏教の系譜をふまえて、なるべくフラットかつ包括的に記されているので、余計なストレスなしに読めます。城福先生、この一冊といわず、もっと一般向けの本を書いてほしいものです。

微笑みの祈り―智慧と慈悲の瞑想

微笑みの祈り―智慧と慈悲の瞑想

 

インドシナテーラワーダ仏教国といえばタイ・ミャンマーが挙げられますが、隣接するラオスカンボジアテーラワーダ仏教が多数派を占めています。ゴサナンダ長老は内戦とポルポト政権下の大虐殺で廃滅の危機に瀕したカンボジア仏教を復興へと導いた方です。本書はその法話集。シンプルな言葉で語られていますが、本物の深みを感じられると思います。ゴサナンダ長老については、当ブログでも紹介したことがあります。

naagita.hatenablog.com

naagita.hatenablog.com

サンガジャパンVol.18(2014Summer)

サンガジャパンVol.18(2014Summer)

 

あと、こちらのサンガジャパン18号でも、カンボジアラオスの仏教指導者とスマナサーラ長老の対話などを通して、当地の仏教事情を知ることができます。あまり類書がないので、一読の価値はあると思います。

  • 第六章 アメリカ仏教
アメリカ仏教―仏教も変わる、アメリカも変わる

アメリカ仏教―仏教も変わる、アメリカも変わる

 

そのものズバリのタイトル。このジャンルは日本語圏ではケネス・タナカ先生の独壇場ですね。アメリカ発のマインドフルネス ・ブームはまさに「アメリカ仏教」のアウトプットと言えるものなので、その背景を押さえるためにも必読の書です。

僧侶と哲学者―チベット仏教をめぐる対話

僧侶と哲学者―チベット仏教をめぐる対話

  • 作者: ジャン=フランソワルヴェル,マチウリカール,Jean‐Francois Revel,Matthieu Ricard,菊地昌実,高砂伸邦,高橋百代
  • 出版社/メーカー: 新評論
  • 発売日: 2008/06
  • メディア: 単行本
  • 購入: 2人 クリック: 10回
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

……正直、チベット仏教系はあまり読んでないんですが、これなんかどうでしょ? 

あ、よく見たら目次にインド仏教入ってないじゃん!というわけでインド仏教徒の大導師、佐々井秀嶺の伝記を挙げておきましょう。 これほどエキサイティングな伝記文学はなかなか読めるもんじゃないですよ。KindleUnlimitedに入ってます。

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

 

そして、長らく法滅状態だったインド仏教を20世紀後半に復興へと導いたアンベードカル大菩薩の伝記を読みましょう。差別に抗い人間の尊厳を確立するという、忘れられていた仏教の価値を突き付けられます。こちらもKindleUnlimitedに入ってます。

  • 第八章 中国仏教
仏典はどう漢訳されたのか――スートラが経典になるとき

仏典はどう漢訳されたのか――スートラが経典になるとき

 

中国仏教は、まったく異なる文化体系であるインド言語で記録された経典を漢文に翻訳するという文明史的な一大プロジェクトによって基礎づけられました。その漢訳仏教経典の成立について概説した画期的な本です。中国仏教の特質を知る上でも欠かせない基本文献と思います。

第1章 漢訳という世界へのいざない―インド、そして中国へ
第2章 翻訳に従事した人たち―訳経のおおまかな歴史
第3章 訳はこうして作られた―漢訳作成の具体的方法と役割分担
第4章 外国僧の語学力と、鳩摩羅什玄奘の翻訳論
第5章 偽作経典の出現
第6章 翻訳と偽作のあいだ―経典を“編輯”する
第7章 漢訳が中国語にもたらしたもの
第8章 根源的だからこそ訳せないもの
第9章 仏典漢訳史の意義

入唐求法巡礼行記 (中公文庫)

入唐求法巡礼行記 (中公文庫)

 

遣唐使として大陸に渡った慈覚大師円仁(三代目の天台座主)が遺した長編旅行記です。隆盛を誇った唐代の中国仏教が、会昌の廃仏によってあっという間に徹底的に破壊される様子が克明に描かれており、これを読んでいると『シン・ゴジラ』で「この国はスクラップアンドビルドで立ち上がってきた」云々いってたの、寝言じゃね?という気がしてきます。大陸の歴史なめちゃいかんです。

21世紀  仏教への旅  朝鮮半島編

21世紀 仏教への旅 朝鮮半島編

 

これも目次には入っていなかった朝鮮半島の仏教。五木寛之さんのNHKスペシャル本、すごく貴重なレポートになってるんですよ。あまり知られていない隣国の仏教の姿が生き生きと描かれています。韓国の高僧との会見録とか爽やかな風に吹かれているようで、とてもいい。古書価格も安いし、ぜひ読んでみてください。

  • 第九章 日本仏教
空海―生涯と思想 (ちくま学芸文庫)

空海―生涯と思想 (ちくま学芸文庫)

 

宮坂宥勝先生の本はどれも切り口がぶっ飛んでいて面白く大ファンなのですが、この空海論は短めの論考をまとめたもので読みやすいです。曰く、明治43年に長谷宝秀が『弘法大師全集』16巻を出すまで、空海は大師信仰の対象であって、著作はほとんど読まれなかった。宗門においても『十住心論』『文鏡秘府論』『性霊集』など等閑視されていた……とすれば、弘法大師空海もまた、近代において「発見」された仏教者と言えるかもしれませんね。 

宝慶記―道元の入宋求法ノート

宝慶記―道元の入宋求法ノート

 

道元と天童如浄禅師の問答集、大陸に渡り真の仏法を求めた道元の鋭い問題意識とそれに答える如浄全身の仏法。道元のその後のすべての著作の基礎と言ってもいい内容である。僕自身20代で本書と出会ったからこそ、冷笑やニヒリズムや価値相対主義に陥ることなく、暗闇の中でブッダの教えを探求することができた。自分と初期仏教を精神的に繋いでくれた本かもしれない。サンガジャパン23号「この仏教書を読め!! 大アンケート」回答より

一遍上人語録 (岩波文庫 青 321-1)

一遍上人語録 (岩波文庫 青 321-1)

 

高校時代に出会ったが、三・一一後の精神的にきつかった時期を支えてくれた。一遍は一言でいえば「捨て聖」である。捨・離という仏法のエッセンスを体現した一遍の言葉にはどんな逆境にある人の心にも響く重力がある。非常時の仏教とでも名付けたい一冊だ。サンガジャパン23号「この仏教書を読め!! 大アンケート」回答より

完全に個人的な趣味の世界ですね。(^^; ただ、この二冊は、適度に短いので繰り返し通読しやすいのです。そういう意味でも、よい古典だなと思います。

  • 第十章 三蔵経典 
『スッタニパータ』と大乗への道

『スッタニパータ』と大乗への道

 

スッタニパータのなかで最古層とも推定されている「八偈品」「彼岸道品」のうち、前者の「八偈品」を精読した作品です。大乗への道云々ってのは正直どうでもいいような気もするんですが、最近出た『スッタニパータ』の解説書のなかでは、石飛先生のこの本がもっとも読みが深いというか、論理を追っているだけで心静まるような良さがあると思いました。

原始仏典――その伝承と実践の現在―― (サンガジャパンVol.25)

原始仏典――その伝承と実践の現在―― (サンガジャパンVol.25)

 

んで、こちらのサンガジャパン25号から、スマナサーラ長老のスッタニパータ「彼岸道品」講義が始まっています。kindle版はセール中のようなのでお試しにぜひ読んでみてください。

スマナサーラ長老関連のパーリ経典解説本については、既に解説をまとめてあります。星さんの選書とも被りますが、ぜんぶおススメです。→ アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書をたどる『長老のパーリ経典解説本を読破する』

あと、書籍にはなっていませんが、「光明寺経蔵」ホームページではパーリ経蔵(長部と中部の全編と相応部の一部)の現代語訳が詳細な文法事項を含めた形で読めます。これだけ膨大な経典を個人訳し、さらに無料公開されているというのは素晴らしいことだと思います。

  • 第十一章 仏教史
仏教史研究ハンドブック

仏教史研究ハンドブック

 

仏教史を学ぶ人向けのガイドブック。日本仏教編では第4章がまるまる「日本近代」。これは20年前だったら想像だにつかない研究トレンドの変化です。その一方で、第1部第1章「インド」は日本その他仏教圏で用いられた”素材”としての仏典編纂史をなぞっているだけで、インド仏教の展開を通史的に捉える視座は皆無。勿論アンベードカルによる近代仏教復興運動は本文でも巻末年表でもガン無視。第1部第2章「アジア諸国・地域」も、やけにあっさり。第2部「中国」「朝鮮半島」は日本への影響が大きい地域だけにバランスよい概説になっていると思います。分野ごとの記述の偏りを感じ取るだけでも、現代日本の研究者たちが仏教史にそそぐ眼差しのありさまが伝わってきて面白い読み物です。

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

近代仏教スタディーズ: 仏教からみたもうひとつの近代

 

第一回「ひじる仏教書大賞」に輝いた作品。近代仏教という「迷宮」への誘い。マストバイの一冊です。

naagita.hatenablog.com

  • 第十二章 仏教辞典
広説 佛教語大辞典 縮刷版

広説 佛教語大辞典 縮刷版

 

辞書って最近はほとんどオンラインでしか使ってなくて、わざわざ重たい紙の辞書を開くことって滅多になくなったのですが、もう四半世紀以上手元に置いてたまに使ってる辞書といえば、中村元『佛教語大辞典』ですね。実は僕が持ってるのは「広説」じゃないほうなんですけど……。引き方からして難しくてビギナーにお勧めするのは躊躇しますが、碩学中村元博士の精髄たる、仏教辞典のなかの仏教辞典とも言うべき作品。情報量は圧倒的です。一生ものの買い物と思い切って、よろしければ。

www.hozokanshop.com

初期仏教経典から抽出した固有名詞を集めた辞典です。Malalasekeraさんの"Buddhist Dictionary of Pali Proper Names"はオンラインで検索可能ですが、赤沼智善の辞書は漢訳阿含経典もカバーしているので、これはこれで未だに貴重なデータベースです。

A Dictionary of Buddhism (Oxford Quick Reference)

A Dictionary of Buddhism (Oxford Quick Reference)

 

こちら英語版の仏教辞典(事典)。英和辞典を引き引きたまに眺めるのですが、読み物としてなかなか面白いです。英語圏の視野だと仏教ってこういうふうに見えるのかぁと新鮮な発見に満ちています。最近、和訳『オックスフォード 仏教辞典』も出たんですが、あまりの価格差に躊躇してまだ買ってません。(^^;

 

という感じで、思いだし思いだし、おススメ仏教書を並べてみました。まずは星さんのブックガイドをお読みいただいて、余力あればこちらで紹介した本も手に取ってみてください。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

スマナサーラ長老 ”さまざまな「日々是好日」経” 講義メモ

“さまざまな「日々是好日」経”講義メモ

2014年01月23日
新宿朝日カルチャーセンター講義
スマナサーラ長老

 

■『「日々是好日」偈』

Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.
Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.

過去を追いゆくことなく また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに
現に存在している現象を その場その場で観察し
揺らぐ(執着する)ことなく動じることなく 智者はそを修するがよい

(以下後述)

 

■阿羅漢方の解説

サミッディ尊者のエピソード:パーリ経蔵の中部(マッジマ・ニカーヤ)には、131.Bhaddekaratta-suttaのほかに、登場キャラを変えた「日々是好日」偈に関する経典が3パターン(132.Ānanda­bhaddekaratta-sutta,133.Mahākaccāna­bhaddekaratta-sutta,134.Lomasa­kaṅgiya­bhaddekaratta-sutta)出てきます。なぜでしょうか? もしや、大事なので必ず憶えなさいという意味じゃないでしょうか? 因果法則に関する経典は繰り返しが大量で、3回どころじゃないありません。「日々是好日」偈はマッジマ・ニカーヤで四回も繰り返し取り上げられています。つまり、これはとても重要な経典(偈)なのです。今日は133 Mahākaccāna­bhaddekaratta-suttaを取り上げます。

 

■マハ―カッチャーナ「日々是好日」経(Mahākaccāna­bhaddekaratta-sutta)

早朝、沐浴中のサミッディ(Samiddhi)長老のところにある神が現れます。

神:「あなたは、「日々是好日」偈とその分析を憶えていますか?」
サミッディ長老:「知りません」 
神:「私も知りません。でもあなたは聴いて憶えておきなさい。解脱(精神の解放、自由)に達する教えですよ」

ここで「憶えておく」というのは、教えと一体になるくらい脳に叩き込むことです。だから繰り返し唱える。それで心がどんどん変わって解脱に達するのです。

サミッディ長老は、釈尊に偈を教えてもらいます。しかし、お釈迦さまは詳しい説明なしに帰ってしまいます。そこでサミッディ長老は、マハーカッチャーナ(Mahākaccāna)尊者に解説を頼むのです。

マハーカッチャーナ長老:「法主釈尊から直々教えを受け取っておいて、なぜ解説を頼まなかったのか?」
サミッディ長老:「でも尊者は釈尊にも認められている方ですから。もったいぶらずに解説してください。」

 

■過去を追いゆく とは?

ここから、マハ―カッチャーナ尊者が「日々是好日」偈について解説します。

「かつて私の眼はこのようなものであった。色(見られるもの)はこのようなものであった」と想います(妄想します)。

過去の眼と色(見たもの)についてあれこれ妄想するのです。

「彼の認識は愛欲(chandarāga)と繋がります。」

いくら過去を思い出しても、その時に比べていまの感覚は衰えています。だから過去の認識に対して愛欲(chandarāga)を感じてしまう。引っかかってしまう。昔は良かったなぁ、という気持ちが起きてしまうのです。

「認識が愛欲と繋がったので、《そこに》喜び・愛着(abhinandanā)をおぼえる。」

聖者は過去を忘れるということではありません。記憶に気持ち(感情)が入っているかどうかで、聖者と凡夫が分かれるのです。無執着の人は、過去のデータ・経験を思い出しても、それに伴う感情は起こらないのです。

「《そこに》愛着をおぼえるとは、過去を追いゆくことです。」

 過去の眼と色 → 愛欲
 愛欲 → 喜び・愛着
 喜び・愛着 → 過去を追う

以上のように、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触(硬さ・熱)、意と法(諸現象)の関係も説明します。

■過去を追わない とは?

眼耳鼻舌身意それぞれの識について思い出しても、それらに対する認識が愛欲と繋がらないのです。愛欲が無い場合は喜び・愛着もありません。過去の感情を蘇らせないのです。

 

■未来に期待する とは?

「未来、私の眼はこのように、色はこのようになることでしょう、と、未経験の、得ていないものを経験するために、得るために心を働かせるのです。」

「こころを働かせると、そのことについて喜び・感情が起こる。」

例:「マイホームを作るぞ」と思った時点でマイホームができたような気分に浸ることです。実行できるか否かは関係ありません。食べてないのに美味しく感じる、という話です。できるかどうかわからないことに欲・怒り・憎しみなどをつくって心が汚れるのです。

「喜び・愛着が起こるとは、未来に願いをかけることです。」

以上のように、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触(硬さ・熱)、意と法(諸現象)の関係も説明します。

過去や未来について感情をつくることで「いま」のこころが汚れるのです。いつでもダメージを受けるのは「いま」のこころです。そういう危険なカラクリについて説明しているのです。

■未来に期待しない とは?

「眼耳鼻舌身意が色声香味触法に触れて起ころうとする認識に対して、《このようになればよい》と期待しない、願わないことです。」

「(これから)○○します」はOKです。でも感情をつくらないこと。

 

■現在(の状態)に執着する とは?

「この眼、この色(見えるもの)は現在です。この現在に対して、認識が愛欲で汚れる(結ばれる・繋がる)。」

「愛欲に染まった認識はそこに喜び・愛着をおぼえる。愛着が起こるとは現在に執着することです。」

欲だけではなく、怒り・憎しみ・恨み・嫉妬なども同じ接着剤なのです。

以上のように、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触(硬さ・熱)、意と法(諸現象)の関係も説明します。

現在においても、六つのチャンネルで、あらゆる処から接着されるのです。

現在(の状態)に執着しない とは?

眼耳鼻舌身意と色声香味触法の関係という現在の現象に対して、こころは愛欲を作らない……。

現在に愛欲→喜び・愛着をつくっても、現在はすぐに消えてしまうものです。執着できないのです。(執着したら、)今を生きられないのです。

Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.
揺らぐ(執着する)ことなく動じることなく 智者はそを修するがよい

過去・未来・現在に執着をつくることなく、元気いっぱいに今を生きてみましょう、という教えです。

Ajjeva kiccaṃ ātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
今日こそ努め励むべきなり だれが明日の死を知ろう

これができると、頭がものすごく鋭くなります。

Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.
されば死の大軍に 我ら煩うことなし

死の大軍:我々に死をもたらす原因は無数にあります。生きられる原因はほんのちょっとしかない。そういうわけで「死の大軍」というのです。

瞑想の言葉:「生は極めて不確かなもの。死だけが確実です。」確かなものとは、「私は瞬間瞬間、歳をとります、そして死にます」という事実だけです。

Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
昼夜怠ることなく かのように住み、励む
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni.
こはまさに「日々是好日」と 寂静者なる牟尼は説く

これが聖者の生き方です。
こころに感情が生まれないから、自由・安穏なのです。

 

■補足

「日々是好日」偈について、釈尊の説明は《自我の錯覚でひっかかるなかれ》という「哲学的」な解説でした。マハーカッチャーナ尊者の説明は《認識する時にひっかかるなかれ》という認識論的な解説になっています。尊者の解説について、釈尊も後でそのとおりと認めました。仏教では両方から説明しますが、後者の説明が多いのです。結局は「認識」ですからね。

こころが動じない(asaṃkuppaṃ)とは、「こころが汚れない」ということです。認識によって、常にこころは揺らいでいる=汚れている=感情をつくっているのです。区別は知識能力によるものです。差別は感情が入っています。(英語だとどちらもdiscriminate という単語を使うので困ってしまいます。)

仕事に対して「興奮しない」とは、「しっかりやっている」ということなのです。動じない、揺らがない、というのは素晴らしいことです。(終わり)

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

 

2016年に出たスマナサーラ長老の本(2)電子書籍

今年の更新のしめくくりとして、2016年に刊行されたスマナサーラ長老の電子書籍を紹介したいと思います。紙で出版した新刊タイトルの大半は少し遅れてkindle化されていますので、それらは除外します。日本テーラワーダ仏教協会(JTBA)から刊行した電子書籍が中心となります。

1『充実感こそ最高の財産―今この瞬間を生き切ればいい』JTBA。2002年に刊行された同タイトルを電書にしました。ダンマパダ(法句経)の一節から展開される人生論です。掌編ながら、人生でほんとうに大切なものは何なのか、問い直すきっかけになる良著だと思います。

仕事でいちばん大切なこと
 

2『仕事でいちばん大切なこと』Evolving。2009年にマガジンハウスから刊行された本の電書版。長老がビジネスマンの悩みにズバリ答えたQ&A集。初対面の相手に緊張してしまう。隣に座っている同僚がどうも苦手だ。朝、起きるのがつらい。仕事に目的意識が持てない。お金の使い方が分からない。いまの仕事が「ほんとうの仕事」だと思えない、グローバリゼーションってなに……といった、働く人なら誰でも抱える日々の悩みや疑問を、どう解決すればいいのか。「ビジネスマンをパワーアップするヴィパッサナー瞑想」「生きるのが楽になる慈悲の瞑想」のマニュアルも掲載しています。

3『わたしたち不満族 満たされないのはなぜ?』JTBA。2006年に協会施本として刊行された施本(のちに国書刊行会から単行本化)がベースになった作品です。多くの人々は、なんらかの「不満感」「不服」「欠落感」「喪失感」といったものをかかえて生きていると思います。そして、それが「満たされる」可能性は、きわめて低いのです。お釈迦さまは、「苦(ドゥッカ)」についての教えのなかで、「求めるものが得られない苦しみ」を説かれました。はたして私たちは、この苦しみを乗り越え、「満足感」を得ることができるのでしょうか。この得体のしれない「不満感」は、どこから生じているのでしょう。「不満」の謎を究明し、なにがあっても失われない「満足感」を味わうために、ブッダの智慧を学びましょう。

4『ブッダが幸せを説く: 人の道は祈ることより知ることにある』JTBA。2001年協会刊の電書化。わずか一握りの人にだけ実現できるものは「人類の幸福」にはなりません。幸福とはすべての人間に実現できなければ無意味なのです。仏教が提唱する「すべての人間に実現できる幸福」とは何なのでしょうか? タイトルでも雄弁に語られているように、信仰や宗教に頼る不安な生きかたを脱却して、幸福に満たされた「目覚め」の人生を歩むことを力強く薦める啓蒙的な一冊に仕上がっています。

5『デキる人の秘密 仏教の性格判断と能力開発法』JTBA。2010年に国書刊行会より刊行されたタイトルを電書化。アビダンマ『人施設論』などに基づいた、テーラワーダ仏教の人間学を紹介した異色作です。本の冒頭で、スマナサーラ長老は「われわれは、どうして人の性格を知りたがるのかというと、まずその人を支配したいからなのです。それは、とんでもない罪なのです。」と言い切ります。性格判断をしたがること自体が、私たちのこころの弱みなのです。本書は世俗の性格判断と仏教の性格判断の違いを鮮明にしつつ、性格判断にまつわる「弱み」から自分自身を解き放ち、ブッダの説かれた能力開発法に明るい気持ちでチャレンジしようと促してくれます。勇気が出る本です。

6『怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む』JTBA。2004年協会刊の電書化。中部21『鋸喩経(カカチューパマ・スッタ)』を全文解説した作品です。怒りに囚われてトラブルを惹き起こしたある比丘に向けて、お釈迦さまは徹底した「怒りの克服」と「慈悲の実践」を説きました。たとえ盗賊に捕まって、生きたままノコギリで身を切られたような目に遭っても、相手に怒りを抱いてはいけないよ、という壮絶な喩え話がタイトルとなっています。出家者に対する説法ではありますが、経典のなかで語られる貴婦人と女奴隷のエピソード(いつもは温和な人であっても不快な言葉に接することで怒りに駆られてしまう危険性を説いた逸話)、他者から投げかけられる様々な批判の言葉への対処法、慈悲の冥想で体得すべき「大地のような心」「虚空のような心」「大河のような心」の解説など、時代や立場を超えた怒りの克服、慈しみの成長のありかたが懇切丁寧に説かれています。「怒らないこと」こそ、仏弟子にとって重要な修行なのだと学べる一冊です。「釈迦牟尼仏陀の世界 聖なるこころを体験しましょう」(慈悲の実践フルバージョン)とも関係が深い経典です。

7『お釈迦様のお見舞い 気づきと正知による覚りへの道』JTBA。初出は2008年刊の協会施本。パーリ相応部六処篇『疾病経』(一)に基づいて、ブッダが病気の弟子たちを見舞った際に指導した自己観察を学びます。瞑想初心者から最終的な覚りの段階までの実践プロセスがコンパクトにまとめられており、「気づき(sati)」の大切さがよく理解できる本です。 

8『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』JTBA。2007年に宝島新書で刊行した同タイトルをもとに電書化しました。人間が自殺願望を持つのは当たりまえ、という仏教の考えかたをもとに、「死にたくなる」気持ちを乗り越え、熾烈な「いじめ」と向き合い、人生を巧みにサバイバルする道を探ります。読み応えという意味では、スマナサーラ長老のたくさんの著作のなかでも、随一だと思います。

 

紙媒体と同時進行のものを除いた、協会プロデュースによる電子書籍化タイトルは以上8点ですが、他に佼成出版社の既刊3タイトルも今年2月に一挙電子書籍化されました。

原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話

原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話

 
原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟

原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟

 
原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

 

ダンマパダから精選した偈の翻訳と解説で構成された『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』(2003年)、その続編にあたる『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』(2005年)、スッタニパータの巻頭を飾る「蛇経」全訳と解説『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』(2009年)、いずれもスマナサーラ長老の代表作です。なお、『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』は、角川文庫版『心に怒りの火をつけない ブッダの言葉〈法句経〉で知る慈悲の教え』の電子書籍と同じ内容です。

 

Amazon.co.jpKindleカテゴリーで検索すると、2016年12月29日現在、スマナサーラ長老の書籍が99点並んでいますKindleの「仏教」カテゴリーは996点ですから、ほぼ1割がスマナサーラ長老の本ということにもなります)。そのうちKindle Unlimited 読み放題対象になっているのは64点です。5巻まで電書化されている『ブッダの実践心理学』シリーズも含まれるので、初期仏教好きの読者にとっては、かなりお得感のあるサービスになっているのではないでしょうか?

 

というわけで、ひととおり今年の仕事を振り返ったので年内の「ひじる日々」更新はこれにて終了としたいと思います。2015年に比べると記事数が激減してしまいましたが、Twitter(@naagita)や新しく開設したnoteページ(商業誌等に寄稿したテキストのアーカイブが基本)とうまく使い分けながら、来年もものずきな仏教系ブログとして歩みを続けていきたいと思います。

 

「ひじる日々」読者の皆様がいつでも幸福安穏でありますように。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~